いまから40年前のきょう、1977(昭和52)年11月17日、国立民族学博物館(大阪府吹田市)の一般公開が始まった。この博物館は、世界の諸民族の生活や慣習などを示す資料を収集・保管し、民族学に関する調査・研究を行なうとともに、その成果を一般に展示することを目的としたもの。制度的には、国立大学に準じた大学共同利用機関として1974年6月7日に発足したが、博物館の建物(設計は黒川紀章建築・設計事務所)は、大阪万博の会場跡地を整備した万博記念公園内に3年をかけて完成、11月15日の開館記念式典を経て一般公開された。


完成した国立民族学博物館 ©文藝春秋

 すでに戦前より日本民族学会では、渋沢敬三(日銀総裁、蔵相も務めた実業家)により国立の民族学研究博物館の設置が提唱されていた。この構想は1970年の大阪万博を契機に実現に向けて動き出す。このとき万博のテーマ館のプロデューサーとなった美術家の岡本太郎の提案により、彼の手になる「太陽の塔」の地下に世界の民族資料を展示することになった。これら資料は、民族学者の梅棹忠夫や泉靖一が中心となり世界中から収集され、のちの国立民族学博物館の基礎となる。梅棹は万博閉幕後、政府や関係省庁と交渉しながら会場跡地への博物館設置を推し進め、初代館長として開館を迎えた。

 この博物館で扱われているのは、いわゆる文化財の枠に収まらない、日用品や儀礼の道具など人々がごく普通に使っていたものである。このため、展示物は原則として、ガラスのケースに入れたりせずに露出して置かれ、なかには手で触れられるものもある。同博物館ではこうした露出展示のほか、新たな試みとして、資料映像を入館者が自由に視聴できる「ビデオテーク」も設けられた。

 開館直後に同館を訪ねたあるフランス人の学者は「博物館というものには、どこでも、ある種のかなしさがある。しかし、この博物館には、かなしさのかわりに、たのしさがみちている」と称賛したという。梅棹としてみれば、その「たのしさ」の演出こそが、自分たちが当初よりめざしていたことであった(梅棹忠夫『博物館長の十年 国立民族学博物館の記録』平凡社)。「たのしさ」を感じ取ってだろう、開館当初より多くの人が訪れ、入館者は1977年内の12月27日までに7万人に達した。現在でも人気の高い博物館の一つである。


初代館長を務めた梅棹 ©文藝春秋

 なお、万博記念公園には国立民族学博物館より1ヵ月先に、国立国際美術館が開館している(2004年に大阪市中之島に移転)。1977年にはこのほかにも、北海道立近代美術館、名古屋市博物館、福井県立美術館、また、旧近衛師団司令部を改装した東京国立近代美術館の工芸館など、公立の博物館・美術館の開館があいつぎ、今年そろって40周年を迎えた。

(近藤 正高)