1970年代に太陽光、水素エネルギーの有用性を説いてドン・キホーテ扱い…田中清玄が先見の明を持てた“理由” から続く

 その古い写真を見ただけでは、一体、どういう会合か、咄嗟に分からなかった。洋風のリビングルームのソファで、4、5人の男が話し込んでいる。一同の中心にいるのは、正客らしい欧米人だ。

 アルバムにある日付けは、1965年10月20日、田中邸での夕食会とある。写っているのは、日本興業銀行頭取の中山素平、富士銀行頭取の岩佐凱実、東京電力社長の木川田一隆である。皆、当時の錚々たる財界人で、まるで生徒のように聞き耳を立てていた。

 欧米人は、来日中の西ドイツのフライブルク大学教授、フリードリヒ・フォン・ハイエク。穏やかな物腰と知的な顔立ちが、貴族然とした印象を与えた。それから9年後、ハイエクは、ノーベル経済学賞を受賞し、一躍時の人となる。戦前から社会主義を批判し、自由主義を唱えた彼の学説は、各国の市場重視路線を支えた。


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 そして、この日、一同を世田谷の自宅に招いたのは、田中清玄だった。戦前、非合法の日本共産党の中央委員長となり、革命をめざし、武装闘争を指揮した。11年を獄中で過ごすが、その間、息子を改悛させようと母親が自殺、それを機に共産主義を捨てる。戦後は、過激化した共産党のデモに、ヤクザや荒くれ男を送って殴り倒させた。

 また、海外の油田権益獲得など事業を手がけ、右翼の黒幕、国際的フィクサーとして知られた。その波乱の生涯を追ったのが、拙著「 田中清玄 二十世紀を駆け抜けた快男児 」(文藝春秋)である。

 そして、資本主義の象徴と言えるハイエクと、終生の友情を結んだのが、元武装共産党の田中だった。

 ハイエクは、1899年、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンに生まれた。第一次世界大戦で帝国が崩壊すると、かつての領地にいくつもの国が誕生した。こうした秩序の激変が、彼に社会科学への関心を芽生えさせたという。

ケインズに真っ向から対立する経済理論を唱えたハイエク

 ウィーン大学などで学んだ後、1930年代、英国のロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授に就く。その後、ハイエクは、経済学者のジョン・メイナード・ケインズと大論争を繰り広げた。ちょうど大恐慌が世界を襲い、失業と倒産が蔓延、その処方箋が渇望された頃だ。

 ケインズは、政府が積極的に介入し、公共事業で総需要を創出すべきと主張した。財政政策と金融政策を両輪に、自由市場と政府介入で、経済を活性化すべきという。これは、不況に喘ぐ米国で採用され、彼の著書「雇用、利子および貨幣の一般理論」はベストセラーになった。