競技スポーツは元来、大義名分と無縁なものである。例えば、球を棒でたたく行為に特別な意味はない。それ自体目的のない非日常的行為に熱を上げるのが、野球の面白さである。評論家の故山崎正和氏は、スポーツと芸術について「産業化社会の無限の目的連鎖」から人々を救うものだと述べた。目的がないゆえに愛好されるのである。

 目的のない行為に競技者や観戦者がどのような思いを乗せるかは自由だ。世界平和でも、金儲けでもいい。だが大会として看板を掲げ方向を定めるとなると、それはスポーツの本質と相容れない。それでも巨額の公費投入ゆえに開催意義を掲げなければならないのが五輪なのだ。コロナ禍の休業補償や感染対策費が求められる現状なら、なおさらである。

 五輪開催の意義を考えてたどり着くのは、開催の意義を問われない五輪にするのが重要だということである。そのためには公費投入に歯止めを掛けなければならない。

当初予算7340億円が3兆円に

 東京五輪の直接経費についてここで整理しておこう。「コンパクトな会場計画」を売りに招致に乗り出した東京五輪は、2013年1月の招致ファイルで総額7340億円の開催をうたっていた。ところが2020年12月に組織委と東京都が発表した経費は1兆6440億円。共同通信によると、これに加え競技場改修などの「関連経費」が7000億円超あり、そこには国が負担する警備費などは含まれていないという。結局は2015年に舛添要一都知事(当時)が「大まかに3兆円は必要」と発言した通りになりそうだ。都市整備などを除いた直接経費で3兆円である。

 大会ごとに開催都市に設置され、IOCが主催する五輪の準備と運営を取り仕切るのが組織委である。民間資金で運営される組織委は無観客開催の影響もあり赤字が確実で、その穴埋めは開催都市、つまり東京都の公費で賄われることになる。東京都の負担は公表されている7020億円をはるかに上回ることになる。 

 経費が計画の4倍である。ただ五輪の世界で珍しくないことでもある。経済学者のアンドリュー・ジンバリストによると、1976年モントリオール大会は当初予算の9.2倍、2004年アテネ大会は10倍、2012年のロンドン大会は3.75〜5倍の費用をつぎ込んだという。

 そもそも1896年の第1回アテネ大会の前、クーベルタン男爵は資金不足のパニックを抑えるために極端に安い開催費用を発表した。予算超過は予定外の出費だけによるものでなく、市民の反発を恐れて当初予算を低く発表する五輪の伝統でもある。