古墳時代中期から後期(五世紀後半〜六世紀)の前方後円墳など十三基が「飯田古墳群」として国史跡に指定されたのを記念し、飯田市教委は二十三日、同市追手町の市美術博物館に専門の古墳研究者を招いて講演会を開いた。古墳群の学術的意義については「飯田の古墳を学ぶことで朝鮮半島と大和政権の関係も見えてくる」との評価が示された。
 講師は、市内の主要古墳総合調査研究事業の指導委員を務めた専修大文学部の土生田純之(はぶたよしゆき)教授。「飯田古墳群の勃興(ぼっこう)と東アジア」のテーマで話し、市内外から百二十人余が聴講した。
 土生田教授は、古墳の政治的意味に関し「墳形と規模で地位と立場を明確にした。大型古墳は四世紀末に姿を消すが、五世紀には飯田地域で一斉に古墳が出現する」などと話した。
 大和政権が五世紀後半、各地に朝鮮半島からの渡来人を配置して馬の生産に当たらせた経緯と理由も解説し「倭国(わこく)と友好的な百済の王が、高句麗の攻撃で死去した四七五年(雄略天皇の時代)が画期になった。このままでは倭国も危ないと、騎馬の導入を急いだと考えられる」とした。
 馬の繁殖、飼育には高い技術が必要で、渡来人の知識が求められたとされ、作り付けの竃(かまど)の普及や硬い須恵器の急増などが渡来人の存在を裏付けると指摘し、「馬と鉄、塩の生産はセットだった」として半島の新技術が日本列島にもたらされた点にも触れた。
 古墳群がなぜ国史跡に指定されたのかについては「飯田の古墳は単に地域史の資料にとどまらず、日本列島の歴史を理解する上で貴重な資料。そのためにも朝鮮半島をはじめとする海外事情を理解することが必要」と述べた。

 (野口宏)