◆「心の重し 軽くなった」
 浜松市の二つの遺族会が新たに作った戦争体験のDVDで証言を寄せた浜松市東区小池町の間渕公子さん(95)は、旧満州(中国東北部)で夫が出征して帰らぬ人となり、混乱の中で生まれた一人息子とともに引き揚げた。「忘れてしまう前に、繰り返さないために」。長らく胸の内に秘めたままだった記憶を、カメラの前で初めて明かした。
 「憲兵か何かが見張っていて、駅で派手な振る舞いをしないようにと厳重に注意されました。自分一人で主人を見送りました。寂しい限りでした」
 映像の中で公子さんは、別れの光景を確かな口調で振り返る。公子さんによると、四歳年上で夫の龍雄さんは南満州鉄道(満鉄)の事務職。一九四四(昭和十九)年七月に結婚し、二人でソ連との国境に近いムーリンに渡った。それからわずか十カ月後に、龍雄さんは召集された。
 その後に公子さんは妊娠に気付いたが、終戦直前の四五年八月にソ連軍が侵攻を開始。爆撃や略奪を逃れて列車で駅を転々とし、翌年二月に四平街(しへいがい)という都市で長男の孝雄さん(71)を産んだ。中国国民党と同共産党による「国共内戦」の市街戦が始まると、畳を窓に立てて身を潜め、共産党軍が撤退すると日本への引き揚げが決まった。
 「収容所にしばらくいて、船が来たときはもう大喜びで皆、跳び上がりました」
 船上では飲まず食わず。孝雄さんは栄養失調になりかけたというが「あのとき連れて帰ってもらえたから今がある」と感謝する。水が使えない不衛生な状況で、公子さんは背負った大きなリュックに、替えの布おむつを大量に詰めていた。
 「関門海峡は機雷があり、九州をぐるっと回って一週間ぐらいかけてやっと広島の大竹港に入りました。島々が朝日に輝いて、日本にやっとどうにか帰れたと、ほっとしました」
 龍雄さんの戦死が伝えられたのは、終戦から十三年後の五八年。中学一年生になった孝雄さんと受け取った遺骨箱には、名前を書いた紙だけが入っていた。
 「娘をさらわれ、帰るに帰れなかった親もいる。苦労話は進んで語るものではない」−。そんな思いもあり、公子さんは自らの体験を孝雄さんにもほとんど教えてこなかったが、今回のDVDの語り手に参加し「心の重しが軽くなった気がする」とも。「若者一人一人に責任はないのに命を落とし、家族にも全然いいことはなかった。映像を見ることで関心を持ってもらえたら」
 今はひ孫たちに囲まれて穏やかに暮らし、龍雄さんの事を思い出しては句を詠む。「靖国の 年々の花見て 老ゆる」「黄砂降る 亡夫の便りと 享(う)けにけり」
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 太平洋戦争の終戦から八月十五日で丸七十二年。戦禍を知る人たちの思いや、記憶を受け継ごうとする次世代の取り組みを、随時お伝えします。
(久下悠一郎)
 <満州> 現在の中国東北部。満州事変を機に占領した日本が、1932年にかいらい国家の「満州国」をつくり上げた。清朝の宣統帝溥儀(ふぎ)が34年に皇帝に即位。開拓などで多くの日本人が渡った。満州国は45年に日本の敗戦とともに消滅した。