◆11日に浜松で
 浜松でピアノ修理の技術を磨き、七十二年前の広島原爆で被爆したピアノを直しては十六年にわたり演奏会を続ける男性がいる。広島市安佐南区の調律師、矢川光則さん(65)。「原爆に苦しめられた父のような人や被爆ピアノを、もう生みたくない」。十一日、ピアノの生まれた浜松で演奏会が開かれる。
 広島市生まれで吹奏楽部員だった矢川さんは、高校生のころ、教師の勧めで、浜松市にあった河合楽器製作所の調律師養成所へ。一年で卒業して一九七二年から同製作所で経験を積んだ。九五年に故郷に戻ってピアノ工房を立ち上げ、修理する事業を起こした。
 それまで原爆について深く関心を持つことはなかったが、父が亡くなって半年たった九七年、転機が訪れた。広島の被爆者団体から一台の被爆ピアノの修理を託され、父の言葉を思い出すようになった。
 消防士だった父正行さんは、爆心地から〇・八キロ離れた庁舎で被爆。多くの同僚が命を失ったが、自身は生死をさまよった末に助かった。「自分だけ生き残ってしまった」。罪悪感にさいなまれ、自らの体験を自分から積極的に語ろうとしなかった。
 届けられたピアノに残る傷やへこみ、ガラスの破片−。至る所にあった原爆の爪痕を見て、当時を思い出す苦しそうな父の顔が浮かんだ。「申し訳ない、申し訳ない」と話す父。ピアノが、父の生まれ変わりのように思えた。修理作業では被爆の悲惨さを伝えられるようにと、最小限の部品交換で、音を出せるようにした。
 二〇〇一年、このピアノを使い、広島県内で演奏会を始めると、すぐ評判に。被爆ピアノの修理依頼や寄贈が相次ぎ、今では全国に十台ほどといわれる被爆ピアノのうち、六台を自ら修理し、譲り受けた。
 被爆ピアノの演奏会や講演はライフワークとなり、演奏会は米国など海外も含め千六百回を超えた。
 戦後七十二年を迎え、体験を語れる人は減っているだけに、被爆ピアノの持つ力を信じる。「戦争の生き証人のピアノは死なない。見た目だけでなく、当時と変わらない音色で平和を訴えられるから」
 安全保障関連法の成立など、昨今の政治に危機感を覚える。「過ちを繰り返してはいけない。被爆ピアノに出合って、平和の大切さを知った。もう核はいらない、戦争もいらないということを伝えていきたい」と力を込める。
    ◇
 演奏会は午後一時から、浜松市中区の市地域情報センターで。広島出身の演奏家、森須奏絵さんが一九三二(昭和七)年、浜松市内にあった旧日本楽器製造(ヤマハ)製造の「アップライト」を弾き、矢川さんも講演する。入場無料。申し込みは、主催者の県労働者福祉基金協会ライフサポートセンターしずおか西部事務所=電053(466)6307=へ。
(鈴木凜平)
 <広島原爆> 1945年8月6日午前8時15分、米軍のB29爆撃機「エノラ・ゲイ」が人類史上初めて、ウラン型原子爆弾「リトルボーイ」を広島市上空から投下。市中心部の旧広島県産業奨励館(原爆ドーム)付近の高度600メートルで爆発し、強烈な熱線や爆風、放射線で広範囲が瞬時に壊滅した。市は45年末までに約14万人が死亡したと推計。今も多くの人が放射線の影響によるがんなどの病気や健康不安に苦しんでいる。