◆浜松在住・元工員の鳥山さん
 終戦間際の一九四五年八月七日、壊滅的な爆撃を受けて二千五百人以上が犠牲になった愛知県豊川市の豊川海軍工廠(こうしょう)。あれから七十二年を迎え、見習工員だった浜松市中区富塚町の鳥山甲子(こうし)さん(86)が、自身の体験を振り返った「我らが青春の150日−豊川海軍工廠終焉(しゅうえん)前後」を本にまとめた。先輩からの厳しい制裁、ばらばらになった遺体の埋葬…十四歳の心に封印していた記憶をひもといた。
 現在の浜松市天竜区熊出身の鳥山さんは、熊国民学校高等科を卒業後、四五年四月に十四歳で豊川海軍工廠の工員養成所に入った。二年前に肺結核で父親を亡くし、母と四人の弟妹とともに残された鳥山さんにとって、働きながら勉強できる環境は魅力的に映った。
 理想はすぐに打ち砕かれた。寄宿舎では「海軍魂を注入する」として、上級生から罰直(ばっちょく)と呼ばれる厳しい制裁が行われた。空腹にあえぎ、こっそり抜け出してサツマイモを買った同期生が、棒で血が出るほど殴られたこともあった。
 八月七日朝、鳥山さんの寮から赤痢患者が出たため、工廠から一キロほど離れた寮で自習することになった。それが生死の分かれ目だった。午前十時十三分から二十六分間、工廠に三千二百発以上の爆弾が降り注いだ。
 鼓膜が破れないように耳をふさぎ、目が飛び出ないようにまぶたを押さえた。「ここも危ないぞ」の声にはじかれ、防空壕(ごう)の外へ飛び出した。爆撃がやみ工廠に戻ると、黒焦げの遺体が無数に転がり、吹き飛んだ女性の首が電線に絡まっていた。次々と運び込まれる遺体の身元確認や埋葬に追われ、十四歳の心はずたずたになった。今も記憶はおぼろげだという。
 鳥山さんは戦後、浜松民友新聞社の記者をへて市役所に勤めた。あの日のことはずっと思い出さないようにしてきたが、ここ数年は病気がちで歩くことも難しくなった。「戦争の恐ろしさ、ばからしさ、平和のありがたさを若い世代の人たちに知ってほしい」。タブレット端末に少しずつ書きため、体調がいい時にパソコンで編集した。
 巻末には「あの戦争さえなかったら」と題した八つの詩をつづった。最後の一節にこうある。「間もなく72年経(た)ち あの日あの時がやって来る そこに工廠があったこと 悲惨な空襲受けたこと もう昔のことだ 若い世代は知らないだろう 平和の像や供養塔 思えば悲しい戦争だった」
 本は二十部製作。工廠の同期生や家族に配り、中区の浜松復興記念館に寄贈した。同館で閲覧できる。
(石川由佳理)