◆三島の伊東さん「平和が一番」
 三島市新谷の伊東克江さん(94)は、太平洋戦争終結後に旧満州(中国東北部)から北緯三八度線を歩いて越えて、本土への引き揚げを経験した。当時一歳の長男を抱え、死の恐怖と向き合いながら。「戦争はやっちゃだめ。平和が一番」と訴える。
 伊東さんは旧長泉村(現長泉町)生まれ。二十歳だった一九四三(昭和十八)年に三島市出身の夫と結婚。関東軍に従軍していた夫を追って四四年五月に旧満州に渡った。旧満州では軍の官舎で暮らし、四五年七月に長男を出産した。「ものに困ることのない平穏な日々だった」と振り返る。
 だが、幸せな生活は長くは続かなかった。同年八月九日に旧ソ連軍が侵攻。翌十日夜に関東軍の命令で旧満州の首都にある新京駅に集められ、生後一カ月の長男と鉄道で北朝鮮北西部の宣川に行くことに。夫とは離ればなれになった。
 宣川では、軍関係者の家族とともに居留民の学校跡地に収容され、四六年七月まで六十人で生活した。配給の食料はわずかで栄養失調や病により乳幼児を中心に二十人ほどが亡くなった。暴行目的でやって来た旧ソ連兵が若い独身女性を連れて行く場面も目撃した。
 四六年七月二十七日、集団で南朝鮮へ脱出を図ることになり、鉄道で宣川から北朝鮮南西部の新幕に向かった。鉄道が利用できなかった新幕からは、長男を抱きかかえながら周囲に遅れまいと北緯三八度線まで約五十キロ余の道のりを夢中で歩いた。
 旧ソ連兵に見つからないよう、日が暮れてから道なき林の中を進み、川を渡った。雨の日が多く、衣類はぬれ、ぬかるんだ地面に足をとられ疲労がたまっていった。持参した米やトウモロコシ、道中で出会った朝鮮人にもらった米を少しずつ口に入れて飢えをしのいだ。途中で倒れて亡くなる高齢女性もいたが、構わず先を急ぐしかなかった。「日本の地を踏みたいとの思いだけ。とにかく必死だった」
 同年八月七日、北緯三八度線を示すくいを通り過ぎたところを、見張りの米兵に迎えられた。「やっと帰れるんだ」と分かり、ほっと胸をなで下ろした。その後、南朝鮮の釜山、博多を経て九月に三島に戻った。「実家の両親に『長男をよく連れて帰ってくれた』と言ってもらえてうれしかった」と目に涙を浮かべた。
 夫は太平洋戦争終結後、旧ソ連の捕虜となり、ウズベキスタンで建物用のれんが積みなどの強制労働をさせられていたが、四八年九月に帰国。三年ぶりに家族は一つ屋根の下での生活を取り戻した。「消息がわからず不安な毎日から解放された。わが家にようやく平和が訪れたと実感した」としみじみと語った。
(佐久間博康)
 <38度線越え引き揚げ> 太平洋戦争終結前の1945年8月9日、旧ソ連が旧満州(中国東北部)や北朝鮮に侵攻し、北緯38度線を封鎖したことに伴い、旧満州から南下して逃れてきた人と北朝鮮にいた日本人の合わせて31万人が難民化した。旧ソ連が北朝鮮の日本人引き揚げ事業を始める46年12月以前に、23万人以上が自らの足で北緯38度線を突破して南朝鮮に脱出した。その間2万6000人以上が飢えや病で亡くなったとされる。