◆B29の下敷き 消えた姉と兄
 「一本の電話から私の戦争は始まった」。静岡市葵区の高須陽子さん(73)が自らの体験を語るとき、決まった一文から入る。姉と兄が一九四五年の静岡空襲で墜落した爆撃機B29の下敷きとなり亡くなったことを知ったのは十年前。空襲の語り部となった高須さんは「八月十五日」を前に今年も平和への思いを強くする。
 電話を取ったのは二〇〇七年六月。姉と兄の幼なじみだったという新井勲さん(82)=横浜市港北区=からだった。自分には年の離れた姉の雅枝さん=当時(10)=と兄の義治さん=同(8つ)=がいて、二人とも一九四五年に亡くなっていたことは知っていた。高須さんは四人きょうだいの末っ子で当時十一カ月。家の仏壇には遺影が掲げられていたが、母のやゑさんは多くを語らないまま他界していた。
 電話から数日後、高須さんは静岡市内で新井さんと会った。新井さんは戦時中、東京から静岡市に疎開し、家が向かい同士だった姉や兄とよく遊んでいた。空襲の日は、数時間前まで姉、兄と遊んでいたという。
 新井さんは自動車販売業の仕事が一段落した六十代後半から、戦時の記憶をたどり、高須さんの姉と兄の消息を調べていた。静岡空襲の証言集で二人の子どもが墜落したB29の下敷きになって亡くなったことを知り、高須さんにたどり着いた。
 B29が墜落したのは静岡市葵区の安倍川の土手。高須さんは新井さんから、河川敷で毎年、空襲犠牲者追悼の集いが開かれることを教えてもらい、その年の六月十九日に初めて参加した。集いでは目撃者の体験を基にしたB29墜落の紙芝居が上演された。息絶え絶えの米兵が、怒りに駆られた人の群れから大きな石を投げつけられて亡くなる描写に衝撃を受けた。
 「墜落の事実を市民が知らない。こういう忌まわしいことがないように、もっと知らせるべきだ」。紙芝居をきっかけに、市民集会や学校での語り部活動をするようになった。
 当時の姉と兄の様子をもっと知りたいと考え、目撃者捜しも始めた。母のやゑさんが高須さんを背負い、姉兄とともに火災から逃れようと土手を登っている途中で、燃えるB29の尾翼が落ちてきて下敷きとなったこと、亡くなってしばらくは母が夜な夜な姉と兄の名前を呼び、現場をさまよい歩いていたことが分かった。
 なぜ母は多くを語らなかったのか。高須さんは「戦争を思い出したくなかったのではないか。戦争を憎んでいたのだろう」と母の胸中を推し量る。
 高須さんは今年になって体調を崩し、語り部の活動ができないでいる。
 「姉や兄は幼くして死んだ。食べたいものも食べられず、やりたいこともやれなかった。亡くなった経緯を知ったのも何かの縁。語り部は残された者の使命。やらないわけにはいかない」。回復したら再び語り部として子どもたちに伝えるつもりだ。

(沢井秀之)
 <静岡空襲> 1945(昭和20)年6月20日未明、グアム島から飛来した123機のB29が焼夷弾(しょういだん)を投下。旧静岡市の市街地を中心に大きな被害が出た。静岡大空襲ともいわれる。2000人以上が犠牲になったとされるが正確な数字は不明。