「つねお」。太平洋戦争で戦死した父と同じ呼び名を授かり、戦後七十二年を歩んできた元技術者がいる。浜松市南区西町の中津川恒生さん(72)。身重の母を故郷に残して激戦地に赴き、わが子が生まれる前に命を落とした父。「生まれ変わりではない。でも、伝えることは宿命」。十五日の「終戦の日」に、犠牲者たちの碑銘を前に平和を誓う。
 天竜川の河口に近い南区の河輪小学校から南に四百メートル。元天山(がんてんやま)と呼ばれる県道沿いの小高い場所に、過去の戦争の犠牲者をまつる石碑が並び立つ。左端の碑の一番右上にある名が「大尉 中津川恒夫」。小笠原諸島の硫黄島で二十七歳で戦死した恒生さんの父だ。
 父が硫黄島に着任したのは、一九四五(昭和二十)年の年明け。飛行機の誘導を担う航測隊の隊長だった。二月に米軍が上陸し、記録では三月十七日に部下三十七人と全滅。最期と伝わる通信内容は「これから突撃する」−。五カ月近くがたった八月の終戦間際に「恒生」さんが生まれた。
 名付け親は祖父の故・謙二さんで「息子の分まで生きてほしいと思ったのだろう」と恒生さんは推し量る。現・静岡大工学部で学んだ技術畑の父。恒生さんは家に残された物理化学の本を自然と手に取って育ち「振り返れば、同じような道をたどった」。スズキに就職し、電気自動車や電動車いすの開発に携わった。
 三十歳の頃、出張で訪れた米国の展示会。社名を告げると「Motorcycle(バイクの)!」と歓待された。平成に入って父を慕う元部下たちが家を訪ね、在りし日の姿に触れた。戦後の復興を見据え「数学を学んでおけ」と説いたこと、疲弊した若者を撤退させ「自分は将校」と自ら硫黄島に向かったこと…。
 「生き残った人たちの努力があるから今の繁栄がある。自分もその背中を追いかけてきた」
 元天山の石碑に記された河輪地区の太平洋戦争の犠牲者は、徴兵や空襲の死者を合わせて百二十四人。住民でつくる英霊奉賛会が毎年十一月に追悼式を営んでいたが、資金不足もあって二〇一二年を最後に中止された。慰霊を欠かさなかった母の睦子さんも二年前に九十四歳で死去した。
 恒生さんは今、市遺族会の支部長。「隣に住んでいた人が突然いなくなり亡くなるのが戦争。命が忘れられていくのはよくない」。追悼式の開催日を八月十五日に移して、支部として開く形で一五年に復活させ、遺族で月二回の掃除当番も続ける。
 「孫の世代以降も続けてくれというのも難しい。ぎりぎり戦中生まれの自分のような人間が、やっていくしかない」と恒生さん。こけむした碑を見上げ、語りかけた。「一度、きれいにしてあげないとな」
 <硫黄島の戦い> 小笠原諸島の硫黄島に1945年2月19日、米軍が上陸作戦を開始し、日本軍が約1カ月にわたり持久戦を展開した。死者は日本側約2万1900人、米側約6800人とされる。島は68年まで米軍が管理し、現在は東京都小笠原村に属する。自衛隊の基地があり一般住民はいない。公式の呼称は「いおうとう」。
(久下悠一郎)