この記事は『史上最強のレーシングカーを目指して│ポルシェ917の誕生秘話』の続きです。

プロジェクト全体が極秘にされていたにもかかわらず、ツッフェンハウゼンが新しいクルマを開発しているという噂はいつの間にか流れ出していた。あの情熱的なフシュケ・フォン・ハンシュタイン率いるポルシェのPRチームは、慎重に言葉を選んだプレスリリースを発行することで機先を制した。そこには新型車について"必ずや注目を集めるデザイン"とだけ記され、他には何も言及されていなかった。
 
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既にレースは始まっていた。ボディとフレームは3月1日に組み合わされ、メカニックたちは分厚いリストを手にして、25台を製作するためにツッフェンハウゼンに貯め込まれたパーツの中から必要なものを選んでいた。エンジンは3月7日に準備が整い、10日の夕方には最初の917が完成した。ジュネーヴでのお披露目まであと2日、まさしくギリギリのタイミングだった。
 
ショーでの反響は熱狂的だった。午後3時にカバーが外されたその時、詰めかけた記者と好奇心旺盛な観客たちからは自然に大きな拍手が沸き起こったという。あのピエヒさえも、笑顔でカメラにポーズしたぐらいである。
 
だが、次は別のレースが待っていた。世界スポーツカー選手権に出場するためには、917のホモロゲーションをFIAから取得しなければならない。ポルシェのカレンダーに載っていた最初のイベントは1969年の4月25日のモンツァ1000km、ジュネーヴ・ショーでのお披露目からわずか6週間後で、その間にポルシェは25台もの野心的な新型マシンを完成させなければならない。その期間にすべての車両を100%仕上げることは到底無理に思われたため、まず18台だけの検査をしてほしいとポルシェは要請したが、予想通りこれをFIAは却下した。

真偽のほどは分からないが、とにかく台数を揃えることを優先させたために、一部のクルマはサスペンションをはじめ細部はまるでポルシェとは思えないものだったという。記録によれば、FIAの検査当日の3月20日までに完成していたのはたった2台で、残りは作業途中の様々な状態で製造ラインに留まっていたという。交渉の結果、二度目の査察日を4週間後の4月21日とすることで合意、二度目の査察官はドイツのONS(現在のDMSB =ドイツ・モータースポーツ連盟)から派遣されたディーン・デラモントとヘルベルト・シュミッツだったが、彼らは首を縦に振った。917は晴れてゴーサインを手にしたのである。


ショーカーとして忙しい日々を送った917-001・・最終回へ続く