心地よい距離感とは? 風通しのよい人づき合い

伊豆下田に移住して1年が経った津留崎家。新しい土地に馴染めるだろうかと心配していた娘さんにも、この1年で変化があったようです。東京と下田で違いを感じる人との距離感、そして地元の人に聞く、昔といまのご近所づき合い。地方で暮らす、いろいろなヒントがありそうです。

雨降って、地固まる? 我が家の1年

我が家が下田に引っ越してきたのは昨年の4月10日、丸1年が経ちました。「まだ1年しか経っていないんだ」というほど、私にとってこの1年は長く感じられます。

移住してからしばらくは自分たちの選択が正しいのか自問自答し続け、不安でいっぱいでした。娘がこの土地に馴染めるか心配だったし、東京の仕事と下田の生活のバランスにも悩み、夫婦喧嘩も絶えなかった。きっと、移住を経験した誰もが最初は思い悩むように、我が家もその例外ではなかったのです。

そうして1年経ったいま、娘も夫も私も下田の暮らしを楽しんでいます。嵐が吹き荒れ大雨が降り、少しずつ我が家の地が固まりつつあるようです。

天気がいい日に出かける自宅近くの「九十浜海水浴場」。無料の駐車場に車を停め、そこから「爪木崎」まで散策。お金をかけなくても、こんなに気持ちのいい時間が持てるこの環境は、とても贅沢です。

私たちが迷いながらもここまでやってこられたのは、地域の方々の支えがあったからです。もし我が家だけで孤立していたら、下田での暮らしは続かなかったと思います。「いつでも遊びにおいで」と声をかけてもらったり、「困ったことがあれば相談して」と気にかけてもらいました。

そうして1年過ごすうちに、娘にも変化がありました。引っ越してきた当初はモジモジしていた娘が、いまではひとりで友だちの家に遊びに行くようになり、さらに夕飯までご馳走になってくるのだから驚いてしまいます。きっと、安心して身を委ねられる感覚を肌で感じているのだと思います。

我が家によく遊びに来てくれる近所のお友だち。同じ小学校の3学年上のお姉ちゃんで、娘にとてもやさしくしてくれます。この日は「Sボード」なるものを手取り足取り教えてくれました。

私たちが以前住んでいたのは東京の杉並区。ハイソでもないし下町でもない、いわゆる平均的な住宅街です。その東京での暮らしといまの下田を比べてみると、人と人との距離がどこか違います。下田のほうが圧倒的に近いのです。

例えば家でゴロゴロしていると庭先に突然人が現れるとか。友人が採れたてのわかめを持って来てくれたり、「近所についでがあったから」と寄ってくれたり。ちなみに郵便屋さんも勝手に「ガラガラ」と戸を開けて郵便物を置いていきますし、友人も「こんにちは〜」と言いながら家にあがってきます。

ご近所さんが海で採ってきたわかめをおすそ分けしていただきました。立派なわかめを前に、家族3人大興奮。「めかぶを刻んで生卵と混ぜてご飯にかけるとおいしいよ」と教えてもらったので試してみたら、もう絶品でした!

食べきれない分は茹でてから天日干しに。すぐ目の前の海でわかめやひじきが採れるなんて、本当に豊かな環境です。

東京で暮らしていたときは「いまから行くね」という連絡があった後、インターホンが鳴るというのが通例でした。けれど、下田で借り始めた家にはそもそもインターホンすらついてない。引っ越してきた当初は少々戸惑いましたが、慣れてくるとその感じが嫌じゃない。むしろ、その身内的な距離感が心地よいとすら感じるのです。

地域のコミュニティについて考える

春になってからは庭で過ごすのがとても気持ちよく、娘は木登りや大縄跳びをして遊んでいます。

そこでも東京との違いを感じる場面に遭遇します。夫と娘が大縄跳びをしていると、たまたま通りがかった友人が合流して、近所の知らない子どもも入って、知らないおばちゃんも加わるという。知ってる人も知らない人も、どこまでという区切りのないこの感じがおもしろい。

地方出身の方にとってはごく当たり前のことかもしれませんが、東京生まれ東京育ちの私たちにとっては新鮮でなりません。いわゆる下町というのか、よい時代がそのまま残っているというのか。

例えば、近所を散歩していると、すれ違う人と必ず挨拶を交わします。東京ではそんなことすらなかった。名前は知らないけれど、「久しぶりだね、元気にしてた?」と立ち話をするような近所のおばちゃん友だちもできました。おばちゃんが大縄飛びに飛び入り参加するのだって、おばちゃんと立ち話をするのだって、下田ではごく当たり前なのです。

以前この連載でも書かせていただいた稲垣えみ子さんの著書『寂しい生活』に、こんな記述があります。

昔は各家庭にはなかった風呂や、冷蔵庫などの便利な電化製品。それを経済成長と共に各家庭が所有し始めたことで、人とのつながりや、助け合う力、共感する力を失ってしまったのではないか。

最近、地域コミュニティの衰退が問題になっています。自治会や地域活動、近所づき合いを含む地域の関係が希薄化しているというのです。

その原因としてあげられているのは、日中働きに出ているため地域にいないことや、子どもの減少、高齢化、住民の頻繁な入れ替わり。そして稲垣さんの考えるように、文明の発達による人の暮らしの変化が大きな要因かもしれません。

ある資料に「地域コミュニティというのは、個人や家庭といった私的な範囲よりは大きく、政府や自治体といった公的な範囲よりは小さく、地理的範囲・公共性ともに中間的なもの」と書かれています。

たしかに私自身、東京にいるときは家庭や会社、自治体には属していましたが、地域のコミュニティについて考えたこともありませんでした。近所づき合いはないのが当たり前で、それに対して疑問すら抱いていなかったのです。

地域コミュニティの衰退は都市部だけの問題ではなく、地方部にも当てはまるといいます。都市部への人口流出により、地域の中心となる若手の人材が不足しているというのです。

東京から移り住んだ私たちにとっては親密に感じられる下田のコミュニティですが、さかのぼるともっと濃かったのかな。例えば稲垣さんが書いていた、まだ家庭にお風呂がなかった時代とか。そんな疑問がふとわいてきて、ご近所の方に話をうかがってみました。

いまも残る、昔ながらの人づき合い

土屋勲さんは昭和16年生まれ。娘の同級生のおじいちゃんで、子ども同士もお互いの家を行き来し合うようなご近所づき合いをさせてもらっています。

昭和20年代、土屋さんがまだ小学生だった頃には、お風呂がない家庭が近所に何軒かあったそうです。土屋さんのご自宅にはお風呂があったので、親戚や近所の方が「もらい湯」をしに訪ねてきたといいます。

当時は水も燃料も貴重でした。一度沸かすと、親戚や近所の人、10人以上が交代で入ったそうです。大人ふたりが入れるくらいの木の湯船で、そのお風呂が設置されていたのはなんと屋外の玄関先。つまり、通りからは丸見えということ。それだけでも、当時といまの暮らしとの違いが想像できます。

ご近所づき合いに変わりはあるのでしょうか。

「昔のほうがもっと親密だったよね。昔は知り合いの家にずかずか入っていったし、子どもらもあちこちの家を自由に出入りするような関係だったけど、いまは少し遠慮気味になったよね」

そう話すのは土屋さんの奥様、幸子さんです。幸子さんは43年間にわたり、この土地で美容室を切り盛りしてきました。その美容室には、ひっきりなしに地元の方が訪れます。何十年も通っているお客さんもいれば、散歩のついでにお茶をしに寄ったという地元の方も。昔ながらの人づき合いが、この美容室には残っているのです。

幸子さんはいまでも、道ですれ違う人と挨拶するうちにだんだんと話すようになって、そのうちお茶をする関係になるといいます。

「ご近所のつき合いってのは、そこから新しい発見があるから楽しいよね。お互い気にかける相手がいるっていうのはありがたいしね」

そして、土屋さんがこんな言葉をかけてくれました。

「困ったことがあればご近所同士すぐに助け合う、それが当たり前なんだよね。だから、なんでも困ったことがあれば言ってね」

こうした言葉が、この1年、私たちを支えてくれたのです。

最近、「銭湯」に通い始めたという東京の友人が増えています。彼女たちにその理由を聞いてみると「知らないおばちゃんと話すのが楽しい」「子どもにもやさしく声をかけてくれて安心する」というのです。

前述の稲垣さんも、東京で暮らしながら近所の銭湯に通っています(ガスの契約をしていないのです。詳しくは著書をぜひ)。稲垣さんは、銭湯通いで感じたことを、こう記しています。

気にかける相手と、自分のことを気にかけてくれる相手が存在して初めて、人は生きていく気力が生まれてくる。そんなすごいことを、銭湯という存在はサラリとやってのけているのだ。

正直なところ、移住を考えていたときにはご近所づき合いとか人づき合いの距離なんてことも、あまり意識していませんでした。けれど、こうして下田で1年暮らしてみて思うのです。この移住によって私たちが得た最大のものは、こうした人と人とが触れ合える環境かもしれない。

この先、時代の流れとともに、下田というまちも変化していくと思います。10年後20年後、娘が大人になる頃に下田は、東京は、日本は、どんな環境になっているのでしょうか。

どうか娘にはいまのこの心地よさ、醤油がないから借りにいけるような風通しのよい人づき合いを覚えていてほしい。そう願っています。

文 津留崎徹花

text & photograph

Tetsuka Tsurusaki

津留崎徹花

つるさき・てつか●フォトグラファー。東京生まれ。料理・人物写真を中心に活動。移住先を探した末、伊豆下田で家族3人で暮らし始める。自身のコロカルでの連載『美味しいアルバム』では執筆も担当。