半年先まで予約で埋まる石川・能登の民宿

能登半島の先のほうにある能登町から海を眺めると、ちょうど富山県の立山連峰が海越しに見える。その美しい景色を一望できる高台に、週末ともなれば半年先まで予約で埋まることもある民宿がある。オーストラリア人のベンジャミン・フラットさんと能登町出身の船下智香子さんが営む、1日5組限定の〈民宿ふらっと〉だ。

今ある暮らしと伝統を、おすそ分けする場所

民宿ふらっとの様子。森に自生する木々が、宿の背後に勢いよく盛り上がっている。海と森、その両方を楽しむには絶好の環境だ。

民宿ふらっとの様子。森に自生する木々が、宿の背後に勢いよく盛り上がっている。海と森、その両方を楽しむには絶好の環境だ。

国内外から旅行者を引き寄せる民宿ふらっとの看板商品は、能登の食材、能登の発酵食品を料理に生かした、通称「ベンさん」のつくる能登イタリアンだ。

ベンさんは13歳から「farm to table」(身近な農場で採れた食材を調理に生かす)をテーマにする実家のレストランで手伝いを始め、シドニーにあるイタリアンレストランでは料理長を務めるまで、キャリアを磨いてきた。イタリア料理は、土地の食材を生かす地産地消が多い。能登に来たベンさんの考えも同じで、「地のもの」を重んじる姿勢は、地元の漁港で揚がった魚介類を受け、メニューが当日に決まるスタイルを見てもわかる。

アオリイカのアラギターラ。宇出津港で上がったアオリイカを使った手打ち生パスタ。(写真提供:民宿ふらっと)

アオリイカのアラギターラ。宇出津港で上がったアオリイカを使った手打ち生パスタ。(写真提供:民宿ふらっと)

調理では地元産の魚介類に、自分でつくった発酵食品の調味料「いしり」や自家製ドレッシングなどを使って、手を加えていく。使われる大根や干し柿なども敷地内の菜園や果樹園で採れる食材で、食卓に並ぶパンも近隣にあるなじみのパン屋から仕入れている。

調味料のいしりとは地域によって「いしる」とも言い、能登町ではイカを原料につくる発酵食品の魚醤油(うおじょうゆ)だ。ベンさんは、こうした能登の発酵食品を大胆に取り入れ、独自の能登イタリアンを完成させた。

特にいしりについては、もともと民宿の経営をしていた智香子さんの両親が、だしや調味料として料理に使っていた。魚介の香りが豊かなこの地元食品が、べンさんのつくるイタリア料理の隠し味になっているのだ。

ベンジャミン・フラットさん。(写真提供:民宿ふらっと)

ベンジャミン・フラットさん。(写真提供:民宿ふらっと)

ベンさんによれば、今は昔よりも食材や調味料への理解がより深まり、一段ステージの上がったイタリア料理を提供できている自負もあるという。「(お客に)シェフが多いよね」と智香子さんが言うように、発酵食品を使った能登イタリアンには、イタリア人の料理人たちも大きな関心を持つ。

智香子さんはこう語る。

「能登では人々が失敗と成功を繰り返しながら、文化として発酵食品を受け継いできました。その伝統がどのように暮らしのなかに息づいているのか、すごく興味があるみたいです。イタリアの食科学大学でも1日授業をやってくれと招かれて、ベンは能登の発酵食品について講義をしてきました。イタリアの学生さんを能登に受け入れ、発酵食品ツアーをプランニングし、アテンドもしています。私たちとしては、民宿ふらっとをツーリストスポットにしたいわけではありません。能登にある暮らしをきちんと守り、その暮らしを知ってもらう、おすそ分けする場所にしたいと思っています」

民宿ふらっとがオーダーしてパンをつくってもらっている〈Noto Pain〉。以前、民宿があった場所で、現在は1.4キロ離れた海の見える高台に移転している。

民宿ふらっとがオーダーしてパンをつくってもらっている〈Noto Pain〉。以前、民宿があった場所で、現在は1.4キロ離れた海の見える高台に移転している。

筆者が取材で訪れた日も、ひと組は海外から、もうひと組は淡路島から、料理を楽しみに遠路はるばる訪れる宿泊者たちを見かけた。声をかけると、「すごく(料理が)楽しみです」と目を輝かして答えてくれた。土地の食材、発酵食品を生かした独自の能登イタリアンの評判は、もちろんこうした一般の旅行者たちにも、着実に広まっている。

変化は怖くない。止まったら終わり

敷地内の果樹。ベンさんの料理に生かされる。

敷地内の果樹。ベンさんの料理に生かされる。

ただ、こうした現状にあぐらをかく様子など、ベンさん、智香子さんには一切見られない。

「決して足を止めてはいけません。お客さんが足を運ぶたびに、私たちの宿が進化し、変化し続けていると気づいてもらえるはずです」そうベンさんが語ると、「変化は何も怖くありませんし、止まったら終わりだとも思っています」と智香子さんも同意する。

敷地内にある離れの客室。本館(4組)の部屋と合わせて1日5組が宿泊できる。

敷地内にある離れの客室。本館(4組)の部屋と合わせて1日5組が宿泊できる。

「お客様と感動を共有することをモットーに、安心、安全で旬の食材を、最高の状態で出せるように努力を惜しみません。食事の場面では料理の説明を通じて、食材、素材の背景を伝え、能登の食文化、発酵食についても知ってもらえるように、能登のコンシェルジュのように能登の良さをお伝えできればと思っています」とも教えてくれた。

この変化や進化は、もちろん料理だけにとどまらない。例えば、駐車場の目の前には築地塀に支えられた棟門のような正門があり、のれんをくぐると豪快な巨岩の飛石が露地庭に配置されている。人工の景物が飾られた露地には、打ち水もされていた。こうした細かなおもてなしにも、ぬかりがない。

「同じく民宿をやっていた両親からも、お客様ひとりひとりに全力で向き合う大切さを教えられました。もてなすというよりは、共感、共有という意識のほうが近いかもしれません」

遠くから来てくれた人を喜ばせたい、満足してもらいたい、また、能登に来てもらいたいと、智香子さんは願う。こんな思いで積み重ねてきた努力の上に、現在があるのだ。

「ただ、お客様にはのんびり、気軽な気持ちで来ていただきたいので、あんまり真面目に書いて、ハードルを上げないでくださいね」と、智香子さんは笑う。

おもしろいことを言って、一緒に腹を抱えて笑い合う宿の雰囲気を大事にしている、智香子さんらしい言葉だ。

民宿ふらっとの正面玄関に通じる庭。

民宿ふらっとの正面玄関に通じる庭。

“I’m your family.”

2000坪ある敷地内を歩くと、力強い潮騒が足下から聞こえてくる。

2000坪ある敷地内を歩くと、力強い潮騒が足下から聞こえてくる。

能登で確かな足場を築き、経営的にも成功を収めるベンさんだが、そもそもどうして能登に移住してきたのだろうか。その質問をぶつけると、ベンさんは移住者という言葉に、引っかかりがあるようだった。

本人はオーストラリアのシドニーから、石川県の能登の海沿いに来ている。移住者としての希少性も、ニュースバリューも十分にある。どうして移住者の扱いを受けたくないのか。

「ベンには移住者という意識がないから」と、智香子さんから説明があった。「移住者、ちょっと違うね」と、ベンさんもうなずく。

左が船下智香子さん、右がベンジャミン・フラットさん。

左が船下智香子さん、右がベンジャミン・フラットさん。

「移住者は、no family relationship(家族が誰もいない)、誰も知らないまちに引っ越しをする人たちだと思います。私は結婚して、親せきがたくさん暮らす日本人の家族に入りました。みんながいつも私に、『家族だからね』と言ってくれます」ベンさんの言葉だ。

「実際、彼には移住者として来た意識が、まったくないと思います。結婚相手である私の田舎がここで、私の家族の一員として最初から迎え入れられているからです」と智香子さんはつけ加えた。

「私がここに来たとき、智香子のお父さんに、『能登に来て暮らしたいなら、日本人になれ』と言われました。さらに私の両親も常々、『もしどこかに移り住むのならば、その土地のコミュニティや彼ら・彼女らの考えを受け入れ、地域の人たちの暮らしに溶け込んでいく必要がある』と言っていました」

民宿のダイニングルーム。

民宿のダイニングルーム。

両親とともに、13歳でシドニーから人口のわずかな田舎に移り住むなど、移住を早くから経験してきたベンさん。移り住んだ先での心構えや生き方を、身をもって学んできた。郷に入っては郷に従え。この精神が、能登でもいかんなく発揮された。その結果、ベンさんは発酵食品と巡り合い、自らの料理にも生かせたのだ。

敷地内にある露天風呂。浴槽からは富山湾が一望できる(4〜10月の晴れた日のみ入浴可)。

敷地内にある露天風呂。浴槽からは富山湾が一望できる(4〜10月の晴れた日のみ入浴可)。

夫婦げんかなんて、するに決まっている

民宿のオリジナルTシャツ。能登半島に暮らす人たちが、自分の住んでいる位置を他人に知らせるときに決まって見せる、親指を立てて自分の暮らす場所を知らせるジェスチャーがデザインされている。手のモデルは智香子さん。

民宿のオリジナルTシャツ。能登半島に暮らす人たちが、自分の住んでいる位置を他人に知らせるときに決まって見せる、親指を立てて自分の暮らす場所を知らせるジェスチャーがデザインされている。手のモデルは智香子さん。

息の合ったテンポで会話をするベンさんと智香子さん。見るからに、最強のコンビだ。しかし、ずっとふたりで働いていて、けんかする日はないのだろうか。

聞けば、「そんなのするに決まっているじゃないですか。けんかはきちんとするね、正々堂々と」と、笑顔で智香子さんが教えてくれた。

「It’s normal life(けんかこそ日常です)。特別な関係なのです」と、ベンさんもすかさずジョークを飛ばす。

お店に飾られた家族写真。

お店に飾られた家族写真。

美しい景色と豊かな食文化、愛される家業の宿があり、家族にも親族にも恵まれ、ふたりはお互いを大切なパートナーとして尊重し合う。東京のイタリアンレストランで働く息子さんや、関西で学び、卒業後は能登に帰ってきたいと話す娘さんについて語るときには、Good life(すばらしい人生)という言葉もベンさんは口にする。

Good life。まさに、その通り。これ以上の幸せが、どこにあるのだろう。納得して日々を送るふたりの充実感が、民宿に訪れるお客にも伝播して、余計に宿泊の満足度を高めていく。

まだまだ予約の取りづらい日々は、続きそうだ。

information

民宿ふらっと

住所:石川県鳳珠郡能登町矢波27字26番地3

TEL:0768-62-1900(受付時間9:00〜21:00)

Web:https://flatt.jp/

※小学生以上宿泊可

writer profile

Masayoshi Sakamoto

坂本正敬

さかもと・まさよし●翻訳家/ライター。1979年東京生まれ、埼玉育ち、富山県在住。成城大学文芸学部芸術学科卒。国内外の紙媒体、WEB媒体の記事を日本語と英語で執筆する。海外プレスツアー参加・取材実績多数。主な訳書に『クールジャパン一般常識』(クールジャパン講師会)。大手出版社の媒体内で月間MVP賞を9回受賞する。

photographer pforile

Yoshiyasu Shiba

柴佳安

しば・よしやす●富山生れ富山育ち。高校生の頃に報道写真やグラビアに魅せられ、写真を独学で始める。富山を拠点に、人をテーマとした写真を各種の媒体で撮影。〈yslab(ワイズラボ)〉 主宰。