野村パターソンかずたか vol.1

北海道旭川市で、リノベーションや不動産事業を営みながら、アーティストインレジデンスなど地域の文化事業を企画・運営する、野村パターソンかずたかさんの連載です。元ミュージシャンで世界の都市を巡った背景から、地元・旭川市にて多様なコンテンツをしかけています。

自社物件で初めて開催したイベントの立て看板。

自社物件で初めて開催したイベントの立て看板。

自分のまちを変えたいという思い

北海道のおおよそ中央あたりにある旭川市。世界の都市を転々とし、Uターン後に目の当たりにしたのは、ずいぶんと変わってしまった地元のまちの姿だった。旭川の土地に生き、地域のみんなと協力してまちを変えていきたい。次第にそんな思いが芽生えるようになった。

お互いの価値観を認め合って、誰もが“楽しい”という感情を最優先に暮らせる。そんなまちを思い描き、できることを積み上げる。その結果、後に3年間で約20の不動産を取得し、地域の起業の後押しをしていくこととなる。

妻の苗字はパターソン。野村はたくさんいる。パターソンもアイルランドにたくさんいる。ただ野村パターソンは誰ひとり存在しない。まちを変えていく存在のシンボルとして、2020年には夫婦の姓を合わせた「野村パターソン」という芸名を自分に与えた。

Uターン後、どのようにまちと関わっていったのか。野村パターソンかずたかの昔話に、どうぞおつき合いください。

2020年9月に立ち上げた〈アーティストインレジデンスあさひかわ〉第1回イベントにて。

2020年9月に立ち上げた〈アーティストインレジデンスあさひかわ〉第1回イベントにて。

渡米、シンガーソングライターへ

「志望校に入れたら進路に口出しはしない」と親から言われ、地域の進学校に入ってから、毎日8時間ギターを弾いた。ギター雑誌のインタビューに「毎日8時間練習すればプロになれる」とあったのを鵜呑みにした。

高校卒業までの18年間を旭川市で過ごし、その後シアトルに渡ってからは、記憶の中の地元のまちは年々美化されていった。

敬愛していたギタリスト、ビル・フリゼール(写真右)と。19才の頃、シアトルにて。

敬愛していたギタリスト、ビル・フリゼール(右)と。19才の頃、シアトルにて。

英語を覚えるため短大に半年ほど通ったあと、市内のコーニッシュ芸術大学に編入し、クラシックの作曲やフリージャズなどの勉強をした。

初めて酒の味を覚えてからは、ナイトライフについての考察を歌にするシンガーソングライターへと転身した。パーティへ行く。曲を書く。ライブをする。知り合いが増え、パーティに招待される。繰り返し。 転機となったのは、応募すらしていないシアトルの音楽コンテストへの参加要請だ。300組以上のバンドから応募があったらしい。片言の英語でアメリカ文化を音痴に歌いながら、新聞で「シアトルトップギタリストのひとり」とまで書かれたギターテクで伴奏をする自分のスタイル。笑いものになるはずだった。

ところが優勝した。やけっぱちになって愛用のギターYAMAHAのFGを放り投げたのがよかったのだろうか。大量の賞品をもらい、大型フェスのメインステージでの演奏や、テレビCMでの楽曲採用など、想像もつかなかったチャンスが転がり込んできた。

ユースカルチャーの象徴「パーティハウス」

この頃から記憶がやけに薄い。パーティとライブの繰り返しは頻度が増し、全米を2週連続でツアーしたりもした。ライブが終わるとハウスパーティに行くのが通例で、どのまちのどの地域にも「パーティハウス」と呼ばれる、いつ行っても誰かがスパークス(缶のお酒)を飲んで遠い目をしている古い家があった。

ハウスパーティの存在は強烈だった。アメリカ生活の象徴だった。汚い家、汚い店舗、汚い倉庫。人が住むべきなのかもわからない場所に若者が集い、酒を飲んでいた。みんな音楽やアートなど、自分の活動の未来について熱く語り合っていた。コロナなんてなかった。お互いの飛沫は2本目のスパークスで流し込んだ。

ある日のハウスパーティ。

ある日のハウスパーティ。

旭川へUターン。変わり果てた地元のまち

2011年、東日本大震災が起きた。日本の文化が大きく変わるかもしれないと感じ、8年間いたアメリカを去る決意をした。

それから5年ほど、東京でのIT通訳やニュージーランドに1年居住するなど紆余曲折を経て、家族の都合もあり、30歳になる2016年に、いまの妻を連れて旭川に戻ってきた。

地域づくりに関わる人の多くがそうであるように、自分自身も、記憶の景色から大きく変わってしまった故郷の顔に驚かされたひとりだ。賑わっていた中心市街地には空き店舗が増え、人通りは少ない。

音楽ツアーを通して見てきた世界中の都市たち。旭川市よりも小さいまちなのに、比べ物にならないほど統一感があり、活気ある場所があった。この違いは何なのだろう。地方が持つ可能性については大人たちが繰り返し叫んでいたが、それが事実だとしたら、なぜ自分のまちはこのような状況なのだろう。そんなことを考えながら暮らしていた。

人通りが少ないのが当たり前の旭川市の中心街「買物公園通り」。

人通りが少ないのが当たり前の旭川市の中心街「買物公園通り」。

老朽化した店舗物件との出会い

Uターンしてまもなく父の会社〈野村設計〉に入り、自社所有の物件運用の手伝いなどを始めた。不動産情報を見聞きし、さまざまな仲介業者やオーナーと話すうちに、ある穴に気がついた。利回りがいいと全国的に評判の旭川の不動産には、ひとつだけ売れ残りの激しい種別があった。

老朽化した店舗物件だ。改修には大きな費用を要する。店舗兼住居の場合、生活と事業の拠点を切り分けたい人には中途半端に映るようでもあった。当時は両手分以上も余っていた中心部の店舗物件。ピンときたもののひとつを内覧してみることにした。

木造2階建の店舗兼住居で、元は小売店だった。入り口がふたつあり、左側が店舗、右側が住居で、広さは約230平米。ひとつの建物を2者が所有していた。

木造2階建の店舗兼住居で、元は小売店だった。入り口がふたつあり、左側が店舗、右側が住居で、広さは約230平米。ひとつの建物を2者が所有していた。

古物件からパーティーハウスの構想へ

この木造物件は建築から60年以上が経ち、目の前には背が高いラブホテルが仁王立ちしていた。滑りの悪いドアを左に押すと、最後の住人の生活がうかがえる風景が目の前に広がっていた。土まみれのすり減った靴と、大工仕事に使っていたのだろうか、錆びついた金槌が落ちていた。

建物の奥の窓は割れ、その合間から何年も手の入っていない庭の緑が見えた。まちの中の忘れられた大自然だった。仲介業者は懐疑的だった。

「解体して駐車場にするか、コンパクトな新築アパートもいいかもしれません」

庭に出て植物をかき分けていくと、古いデザインのビール缶がクシャっと潰れて落ちていた。拾い上げた缶と、ひんやりとした古物件の背中を眺めていると、ある風景が脳裏に突然浮かんできた。

物件の裏側。畑にするつもりで植物を一気に撤去した庭。

物件の裏側。畑にするつもりで植物を一気に撤去した庭。

アメリカ時代に訪れたハウスパーティの家々だった。この物件も負けないくらい汚いし、人が集まって酒を飲むには十分なサイズだ。ライブもできるだろう。制作場所にもできるかもしれない。パーティを再現できないだろうか。誰にも相手にされていないこの物件で。

「買います」

700万円のアテはなかった。不動産をどう購入するのかも理解していなかった。啖呵を切るのはミュージシャン時代からの癖だった。

元キッチン部分。

元キッチン部分。

物件購入。工事をしながらパーティをする

最悪の場合は駐車場にすればいいという結論に至り、法人での購入が許されたのは数日後のことだった。土地代マイナス解体費の現状渡しという条件も好都合だった。会社の金でも責任は自分。強くそれを感じるために、当日の印鑑は自分で押した。古めかしい鍵2セットずつをこちらに手渡すと、前所有者のふた組は慌ただしくお茶を飲み干し帰って行った。

自分の物件になったからだろうか。ドアの滑りは前よりも良くなったように感じた。調子が悪いときでさえ、それが愛嬌のようにも思えた。

何の道具も持たずに物件に行き、部屋の真ん中に座り込む。どの道具が必要かもわからなかった。設計士の息子として生まれ、人並みに建築本は眺めてきたつもりだが、いざ物件を前にすると自分の無知は清々しいほどだった。

左側が店舗、右側が住居という構造。店舗側の改造作業と並行して、住居側ではライブやパーティを頻繁に行った。アメリカで体験したハウスパーティを再現するべく、ライブ時の入場料はとらず寄付制とし、食べ物や飲み物を持ち寄るスタイルに。前の住民の生活感がそのまま残り、知らないおばあちゃんの家を乗っ取ってパーティをしているようだった。

「SPEAK」と名づけたイベント。ベルギーのアーティストと尺八を吹く。

「SPEAK」と名づけたイベント。ベルギーのアーティストと尺八を吹く。

海外のハウスパーティではなかなか見ない土足厳禁の会場。

海外のハウスパーティではなかなか見ない土足厳禁の会場。

リノベに挑戦。自ら解体に挑むものの……

電子工作の上達方法は、ラジオを1台分解することらしい。自分はそれを建物でやってしまった。土壁を叩くと、竹と竹小舞という縄のような物で組まれた枠が出てきた。鴨居を外し、柱は残し、とやっているうちに自分がどこを目標に解体しているのかがわからなくなってきた。

計画なしに進めるリノベーション。というか解体。

計画なしに進めるリノベーション。というか解体。

結果は大失敗。計画、妄想だけが先行し、改修ではなく解体になってしまった。パーティハウスは夢のものとなり、翌年の春にはきれいな駐車場へと生まれ変わった。あのボロ屋が嘘のように真っ平な更地となり、粒立ちのいい砂利が70坪の敷地をしっかりと埋め尽くしていた。

解体が終わり、砂利敷きに。

解体が終わり、砂利敷きに。

パーティをしたかった。地域活性とか、まちおこしとか、難しい話はもう懲り懲りだ。価値観の異なる人をすべて受け入れて、明日について話すパーティがしたかった。こざっぱりとした駐車場のオーナーへと成り下がったある日、仲介業者さんから電話がきた。

「野村さんなら気に入りそうな、古い店舗物件が出ました。場所は買物公園です」

旭川市が誇る日本初の歩行者天国「買物公園」。高校生の頃、何度も通った道でもある。お前も駐車場にしてやろうか。この物件との出会いが空き物件再生に目覚めるきっかけになるとは、このときは知る由もなかった。

次回は、中心市街地に誕生した写真家による骨董品屋さんの事例をご紹介します。

writer profile

Kazutaka Paterson Nomura

野村パターソンかずたか

のむらパターソン・かずたか●1984年北海道生まれ。旭川東高校卒業後に渡米し、 コーニッシュ芸術大学作曲科を卒業。ソロミュージシャンとして全米デビューし、これまでに600本以上の公演を行う。2011年に東京、2015年にニュージーランドへ移住し、IT企業で事業開発・通訳などを務める。2016年に旭川に戻り(株)野村設計に入社。遊休不動産の活用事業を3年で約20件行う。2020年に〈アーティストインレジデンスあさひかわ〉を立ち上げ、芸術家との交流を通した地域活性を開始した。