「震災から立ち直る生産者たちがつなぐ、未来への希望」

去年10月、岩手県で「三陸からつなぐ『食』の未来〜Withコロナ時代の『食』を考える〜」をテーマに、2度目となる「三陸国際ガストロノミー会議」が岩手県で行われた。

大船渡市での国際会議に先立って行われた食のキャラバンでは、国内のシェフたちと共に、三陸の生産者たちを訪問した。日本の食の根幹を支える生産者たち。震災から立ち上がり、未来へとあゆみを進める三陸の人々の姿から、これからの食が見えてくる。

震災で全てを失ってからの逆転劇、キーワードは「共有」

「だってね、僕らの仕事見て、漁師になりたいって脱サラとかして来てくれてる人がいるのに、自分だけ一抜けた、って漁師を辞めることなんてできなかったですよ」と、牡蠣生産者の佐々木学氏はいう。東日本大震災の津波で全てを流され、西日本出身の妻から「うちの実家に行く?」と聞かれた時も、そう答えた。あれからまもなく10年。「日本一の牡蠣」との呼び声は伊達ではない。日本中から極上の食材が集まる豊洲市場で、佐々木氏を始めとする生産者が出荷する「広田湾の牡蠣」は日本一高い価格で取引される。

ぷっくりと身の詰まった牡蠣は、夏の間に船上で湯を沸かしてロープごと牡蠣を数十秒間漬けて、成長を阻害するムール貝などを取り除く「温湯処理」、さらに出荷前の一ヶ月ほど、牡蠣をロープから外しカゴに入れて海中に沈めるなどの、きめ細かい仕事で生み出されている。そんな重労働をして良い牡蠣を作っても、売れなければ仕方がない。

震災後、養殖場を再建し出荷ができるようになった2016年から、温湯処理の様子をYouTubeで公開したり、レストランの視点に立って、「お客様に伝えやすいストーリーは何か」を考えて提案した。これまで地元でしか流通してこなかった、雪解け水に含まれるプランクトンをたっぷり食べた春先の牡蠣を「雪解け牡蠣」と名付け、「おいしいから、これまで漁師がこっそり食べて来た牡蠣」と売り出したのも、そんな理由からだ。

情報を共有し、メッセージを発することで、広田湾の牡蠣は震災前の3〜4割増の価格で取引されるようになったという。同時にECサイトを設置して直接の取引もスタートし、収入は震災前の1.5倍に。生産者として望むのは、フィードバック。「お客様の声が聞きたい。そうしたら、大変だけど、また頑張ろう、って思えるんです」

子どもの頃は、放課後になれば両親が働く浜で遊び、夏休みになれば、船に乗っては祖父の温湯処理を手伝った。名刺には、似顔絵と「三代続けての牡蠣バカです」の文字が踊る。「バカ」にはもちろん、牡蠣生産者としての誇りが込められている。「子どもたちの未来の為にも、浜に活気を取り戻したい」

津波で流された田での日本酒造りで人々の「絆」を取り戻す

「高台に引っ越すことだってできたんです。実は、1960年のチリ地震の時も津波被害にあっている。でもね、ここの人たちは流されても流されても、元の場所に戻ってくる。それだけ、土地への愛着が強いのです」と、大槌酒米研究会会長の佐々木重吾氏は言う。水の質の良さで知られる大槌町。海岸からわずか1キロメートル、上質の米が収穫できた肥沃な土は流され、しばらくはガレキ置き場として使われていた水田。やっと客土として入ったのは痩せた土だったが、助け舟を出したのは釜石市の酒造会社、「浜千鳥」の新里進社長だった。

酒米の場合、痩せた土の方が、醸造の際に「磨き」を行う理由でもあるタンパク質が少なく、むしろ栽培に適している。「自社の酒を造るために、飯米ではなく、酒米を育てて欲しい」とリクエストしたのだ。さらに、それを飯米よりも高価な値段で買うことで、復興を支えた。それだけではない。田植えや収穫に、地元のラグビーチーム「釜石シーウェイブス」のメンバーや近隣に住む子ども達を招き、悲しい思い出の残る場所を、人と人とをつなぐ場として生まれ変わらせた。

造るのは日本酒だけではない。失われかけた「人と人との絆」造りでもある。「地元の米で作った、地元の酒」は、楽しい思い出に結びつき、地元の人に愛される酒にもなっていく。地元愛が生み出す、プラスのスパイラルが、未来の地域作りにもつながっていくことだろう。

環境に優しい陸上養殖のノウハウを次世代につなぐ

「僕が継ぐから、養殖場を立て直してよ」約30年かけて生み出して来たアワビ養殖場が津波で流され、廃業を考えていた古川勝彦氏に、現在の三代目で、孫の古川翔太氏がかけた言葉だ。「正直、当時中学生で、それまで後を継ごうと明確に考えていたわけではありませんでした。でも、流されてしまった養殖場の光景を見たら、何か使命感のようなものを感じて」と語る。土地への愛着は、世代を超えて受け継がれているようだ。元正榮 北日本水産の初代・勝彦氏は元々アワビ漁師だったが、日に日に減少する漁獲量に危機感を抱き、エゾアワビの陸上養殖に踏み切った。東京大学、北里大学などの協力も得ながら、1982年に世界初のエゾアワビの交配からの陸上一貫養殖をスタート。豊かなプランクトンを含む三陸の海水を掛け流しで使い、海藻などを主体とした、抗生物質やホルモン剤を使わない独自の飼料で交配から出荷までを行っている。成長の良いアワビ同士を自家交配するなどして、震災前は、3つの養殖場を持ち、全国の養殖アワビのシェアの半分を占めるまでになっていた。

その後銀行から借り入れを行い、新たに作った1つの養殖場を基盤に、生産量を元の60%まで回復した矢先のコロナ禍だった。現社長で二代目の古川季宏氏は「これまでホテルやレストラン中心だった出荷先を見直し、ECサイトやチラシを作って一般販売にも力を入れていく」ほか、コンサルティング業務など、リスクを回避するためにも、バランスの良いビジネスモデルの構築を考えている。

陸上養殖は、海中養殖に比べて多くの投資が必要だが、季宏氏はその意義は大きいと考えている。「私たちが行っている手法は、養殖の過程で薬剤などは使わず、使った海水は餌の食べ残しなどをきれいにろ過した後、海に戻されるため、海上養殖で問題になりがちな海水汚染の心配はない。水産資源の枯渇を救うには、陸上養殖の普及が不可欠です。この養殖のノウハウは、貝類全般、ウニ、ワカメなどにも応用できる。今後のサステイナブルな漁業を考えていく上でも、大切になっていくはずです」。

震災をバネにITを活用、ピンチをより良い環境づくりのチャンスに

「元々大船渡は秋鮭の産地だったが、海流が変わって餌場が縮小したせいか、最近は全く獲れない。最盛期は年間1万トン獲れたが去年(2019年度)は79トンと、100分の1以下に減ってしまった」と嘆くのは、大船渡市魚市場で50年働いていると言う佐藤光男専務だ。近年の水産資源の減少は、水産王国・三陸に大きな打撃を与えている。この他にも、温暖化の影響か、これまでに見られなかった南方の魚が網に入るようになって来ている他、イカの不漁で、地元の加工業者が中国などからの原料輸入に頼らざるを得ない現状もあるという。日本近海の漁獲が減っている中、今後は限りある資源をいかに大切に使っていくかが鍵になっていく。

そんな中、津波で流されてしまった大船渡市魚市場は、全国22の衛生管理の良い魚市場の一つとして選ばれるほどの最先端の市場に生まれ変わった。地元商店街など、600人以上の人々の寄付もあって作られた市場だ。通常の入札ではなく、魚はICチップのついた箱で自動計量され、全国からタブレットで入札ができる仕組みで、氷も海水をシャーベット状に固めたものを使い、魚の表面に傷を付けない工夫がされるほか、衛生管理も徹底されるなど、震災前以上のスムーズな取引と魚の質を保つ工夫がされている。量より質の漁業への転換の第一歩を踏み出した形だ。

今年3月11日、三陸は東日本大震災から10年という節目の年を迎える。そして、今私たちが、その只中にいるコロナ禍は、ライフスタイルに大きな影響を与えた。今後、都心一極集中から地方分散型へと社会が移行し、地方の個性と可能性がよりクローズアップされてくるだろう。県を挙げて「ガストロノミーで復興を」と、シェフと生産者、地域が一丸となって個性を表現しようとしている岩手県。訪れた先々で感じたのは、生まれ育った土地に対する深い愛着だ。私たちの命をつなぐ食は、大地に、海に、そしてそこから、食材という命を生み出す人々に支えられている。未来に向けてあゆみ始めている岩手の人々に出会った三陸国際ガストロノミー会議を通して、その事実を改めて感じさせられた。

取材・文・写真=仲山今日子