バスクと金沢をホームに “ダブルスタンダード”を持ち続ける

アサドール・エチェバリ スーシェフ
前田哲郎さん

 自転車に乗って冒険するのが日課だった少年は、やがて料理人として生きることを決意し、美食とアートの街・スパインのバスクに移住する。「バスクの山を歩くことで、物事の理が見えてきた」と語る前田哲郎、35歳。「世界のベストレストラン50」にランクインする人気店「アサドール・エチェバリ」の次代シェフとも囁かれるなか、彼が日本帰国中に下した決断とは――。

生活とは誰と共に生きているか
嬉しいという感情に正直でいたい

―― エチェバリの料理を、どのように解釈していますか?

「お客さんが何も考えずに「このトマトおいしいね」と言えるように調理すること。トマトをもいで皮を剥いて、適当な大きさに切って適切な味付けをすることが、僕たちがやっている料理です。料理は決してゼロから始まるものではありません。素材の背景を知り、それを磨き上げるのが僕たち料理人の仕事だと思っています」

―― そう思えるようになったのは?

「羊小屋を改装した部屋に住み、生活の基盤をバスクに置き、バスク人になろうと決心してからですね。山を歩き、畑の手入れをし、バスクの村人らしい生活をすることが、エチェバリの料理を理解するうえで一番大事なことでした。バスク人にとって山は神聖な場所。その山に生えている植物の色や香りを盛り込み、バスクのランドスケープを表現したサラダが最初に認めてもらった料理でした。僕は、自分が料理をしている場所を自分のテリトリーにすることが大事だと思っています。日本に帰ってきたら東京ではなく金沢で料理をしているのは、自分のホームでありテリトリーだからです」

―― 今やエチェバリに不可欠な存在ですが、独立を考えることは?

「自分の料理がしたいという気持ちがあります。その自分の料理は、エチェバリでは成立しません。エチェバリはオーナーシェフ・ビクトルのレストランですからね。実は先日、ビクトルから引退の意思を告げられ、その際に「 次を任せるのはテツローだ」と言ってもらえたんです。あまりに嬉しくて「ありがとうございます!」と生半可な返事をしてしまい……。でも僕が今やりたいことは、僕のホームに人を招き、僕の料理を食べたいと言ってくれる人に対して一生懸命に料理をすることなんです。それが出来る自分にやっとなれた。今年で35歳。明日スペインに帰ったらまず、独立の意思をビクトルに伝えます」

―― エチェバリのシェフという立場は惜しくありませんか?

「前田という名前を広めてもらえたのは、エチェバリのお陰であって僕の力ではありません。エチェバリで経験を積めば積むほど、自分はビクトルではないという感情が強くなっていきました。ビクトルを目指してきましたが、やっぱり彼にはなれない。いや、なるべきことではないと納得できるようになったのは、ここ2年くらいです。エチェバリの前田ではなく、前田哲郎とはどこの誰なのかを、これから自分のレストランと料理で世界にアピールしていきたいと思っています。それをまず、金沢でやります」

―― バスクを去るということですか?

「違います。自分のレストランを、金沢とバスクの2拠点に構えるつもりです。日本に帰るの?バスクに残るの?とよく聞かれますが、生活とは誰と共に生きているか、ですよね。僕には、自分の帰りを待ってくれている人たちが金沢とバスクにいる。それは凄く嬉しいこと。その嬉しいという感情に正直でいようと思うんです。これからもホームのダブルスタンダードが変わることはありません」

―― 最後の質問です。前田さんの一番好きな料理は何ですか?

「エチェバリの海老。塩もせず焼いただけの海老です。このお皿に感動してエチェバリに入り、人生が変わりました。焼いただけの海老を料理と呼べるエチェバリが、僕は大好きです」

アサドール・エチェバリ スーシェフ 前田哲郎
1984年に東京で生まれ、石川県金沢市で育つ。居酒屋でのアルバイト、父親が経営する飲食店を数年間手伝った経験はあったものの、料理人としての修業経験がほぼないまま27歳でスペイン・バスクへ渡る。「アサドール・エチェバリ」の料理に衝撃を受け、修業を直談判。現在はオーナーシェフのビクトル・アルギンソニスの右腕を務め、ナンバー2にまで昇り詰める。写真の撮影場所は、破壊と創造が続く渋谷。スペイン帰国当日の朝に、バスクとは対照的な絵を背負ってもらった。


text 馬渕信彦 photo 堀清英

本記事は雑誌料理王国2019年12月号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は2019年12月号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。