料理もサービスも雰囲気もパリそのまま 夜ごとセレブが集う大人の社交場に

 東京オリンピックを契機に、続々とホテルが誕生した1960年代前半。巷では、「帝国ホテル」の村上信夫料理長と「ホテルオークラ」の小野正吉料理長という2人のスターシェフが、テレビや雑誌で大車輪の活躍をしていた。

 時代は高度成長期。好調な産業は飛躍的に業績を伸ばし、国民の間にも高揚感が満ちていた。

 そんななか、1966(昭和41)年10月31日、その〝事件〟は起きた。東京・銀座の数寄屋橋交差点にあるソニービルの地下3階に、「マキシム・ド・パリ」がオープンしたのだ。「大人の社交場をつくりたい」という、ソニーの盛田昭夫副社長(当時)の熱い思いが結実したのだった。

初代料理長にピエール・トロワグロ

オープニングのディナーレセプションには、皇族や各界の著名人、フランス大使ご夫妻をはじめとする在日欧米大使ご夫妻などが出席。『ニューズウィーク』誌は「黒船襲来」をなぞり、「ペリーが日本を開国して西洋文明を紹介して以来の大事件」と報じた。パリからはキッチンに5人、サービスに5人、そして楽団員5人が派遣され、厨房はピエール・トロワグロと浅野和夫のダブルシェフ体制を敷いた。

 浅野は1960年に渡仏。パリの日本大使館で働いていたが、大使が「マキシム」でよく食事をしていたのが縁で、その厨房に入ることができ、のちにソーシエとして活躍した。それが認められ、料理長になることを熱望されたのだった。現在は一線を退いて顧問となっている。

「結局、トロワグロさんは4カ月ほどで帰国されましたけれど、彼は人柄もよく、コミュニケーションも良好で、仕事はとてもやりやすかったです」

 客は、大使館や商社、大手企業のトップ、芸能関係者など、グルメな人たちがほとんど。ヴァイオリン奏者が演奏しながらフロアを回り、夜10時を過ぎる頃になると、デザートを食べ終わった人たちがダンスを始める。

「本当に、パリの社交界さながらの豪華さでした」

 入手困難な材料もあったが、料理の味付けも日本人に合わせることはせず、パリの味にこだわった。さらに、一人分ずつ皿に盛られて出されるのではなく、料理は大きなトレーに盛られて、客が待つテーブルに運ばれた。それを、熟練したメートル・ド・テルが切り分け、あるときはフランベし、ソースをかけ、仕上げて客に出す。客はメートル・ド・テルの華麗な技を目で楽しみ、その優美な雰囲気と食事を堪能した。

「もっとも、当時のフランス料理は濃厚な味付けでしたから、日本のお客様は塩辛いと感じられたのでしょう。そういうご指摘も受けました。また、お客様から『しょう油がほしい』というリクエストも多く、サービスの人間がしょう油を持って行くと、怒ったフランス人コックがサービスの人間を追いかけていくということが、一晩のうちに何度もありました。そのたびに私が間に入って、仲裁したものです。今はフランス料理でも、しょう油や味噌を普通に使っているのに……。隔世の感がありますね」(浅野さん)

 1968年には、日本初の超高層ビル「霞ヶ関ビルディング」が完成。翌年には東名高速道路が全線開通。日本経済の発展にともなって、日本の風景も人々の暮らしも、大きく様変わりを始めていた。そして1970年に開催される大阪万国博覧会をきっかけに、日本の西洋料理界もまた、新しい時代を迎えることになるのである。

ソール・アルべール
パリの「マキシム」の伝説のメートル・ド・テル、アルベールの名を冠した「マキシム・ド・パリ」のスペシャリテ。アルベールがいたことから知名度も高く、よく出されている。「マキシム・ド・パリ」では、今も写真の形式でゲストの前まで料理を運び、メートル・ド・テルが取り分けて個々の皿に盛り、写真上の銅器に入った野菜を盛り、ソースをかけてゲストに提供している。

Kazuo Asano
1927年横浜生まれ。京都レストラン「スター」を経て1960年に渡仏。パリ「マキシム」などで3年間料理修業をする。1966年、「マキシム・ド・パリ」総料理長に就任。1996年退任し、現在は顧問。

山内章子=取材、文 依田佳子=撮影 

本記事は雑誌料理王国228号の内容を本ウェブサイト用に調整したものです。記載されている内容は228号発刊当時の情報であり、本日時点での状況と異なる可能性があります。掲載されている商品やサービスは現在は販売されていない、あるいは利用できないことがあります。あらかじめご了承ください。