1934(昭和9)年に呉港中が夏の選手権大会で優勝を飾るなど、広島県勢は中等野球界をリードしたが、その後は徐々に勢いが失われた。そして日本はあの忌まわしき日中戦争から太平洋戦争へと突入していく。戦局が厳しくなった41(昭和16)年以降、広陵や広島商という強豪校も休部、解散を余儀なくされ、運命の45(昭和20)年8月6日を迎える。広島の中等野球が荒廃の中から立ち上がったのは、その1カ月後だった。

 1935(昭和10)年以降、広島の中等野球界は呉港中、広島商、広陵の“3強時代”に突入。黄金時代だった呉港は38年夏に7連覇の夢を断たれ、広島商、広陵も甲子園大会に出場はするものの、上位進出を逃した。そんなさなかの39年夏、和歌山・海草中(現向陽高)の嶋清一投手が全試合完封勝利で優勝という信じられない偉業を達成している。

 この時、日本は日中戦争の真っ直中で、さらに太平洋戦争に突入しようとしていた。暗い影が国中を覆い始めた41(昭和16)年7月、沖縄、宮崎で2次予選出場の高校が名乗りを上げたが、厳しさを増した時局が球児たちを地獄に突き落とした。『広島商業高校野球部百年史』に、こんな記述がある。

 「ところが、第2次近衛内閣で臨戦態勢をとり、学徒を居住地に足止めする必要から中等野球禁止の動きとなったのだ。しかし、当時、防諜の見地から、中止の社告を出すことも認められず、野球大会は国民の先らぬ間に、シンキロウのように消え、昭和20年までの“暗い5年間”を迎えたわけである」 

 その広島商が“幻の甲子園”と呼ばれる「文部省主催 全国中等学校体育大会」に出場したのが42(昭和17)年夏だった。当時の監督は山崎数信。永遠のライバルである広陵中の出身で、春のセンバツ大会で優勝の実績を持っていた。この後にも先にも広陵出身者が広商の監督になった例はない。この年、広陵中野球部は時節に押される形で解散を余儀なくされていた。

 広島商は準決勝で平安(京都)に4−8で敗れ、無念の涙をのんだ。その翌年の4月、広陵中に続く形で解散となった。「数々の優勝旗、優勝杯を集め、全部員が記念写真をとって解散した」と、百年史は伝えている。

 球音が広島から途絶え、日本国中から消え去った。太平洋戦争は徐々に日本が劣勢となり、ついに運命の日を迎える。45(昭和20)年8月6日。午前8時15分、広島が1個の原爆によって廃虚と化した。江波にあった広商校舎は全壊こそ免れたが「校舎の窓はほとんど吹き飛ばされ」「爆投下位置から南西に2・1キロ。周囲にはさえぎる建築物は何もなかった」という状態だったという。

 長崎と共に、想像もつかない荒野から立ち上がった広島。広陵や広島商に野球が復活したのはこの年の9月頃で、続々と各校の態勢も整えられていった。

 「戦後の野球界の復活は早かった。広島商、広陵のOBたちがすぐチームを作った。食料も乏しく、物資不足の時代だった。ヤミ市でグラブを買い、ボールの買い出しに遠くまででかけた。熱心な先輩たちが母校野球部の再建に力をかした」(広島スポーツ史)

 こうして広島野球界は復興の道をたどっていくのだが、そこには“暗い5年間”に無念の涙を流した多くの球児や、戦火に散った人々の思いがあることを忘れてはならない。広島はもうすぐ、72回目の原爆記念日を迎える。今に生きる選手たちは来夏に迎える『100回大会』を前に、改めて平和について考えてほしい。(敬称略)