1973(昭和48)年春のセンバツで準優勝に終わった広島商は捲土重来を期して夏の甲子園に駒を進めた。春の準決勝で下した江川卓擁する作新学院が3回戦で敗れる中、順調に勝ち進み、ついに決勝戦を迎える。相手は静岡。試合は白熱の展開を見せたが、最後に迫田穆成監督の“奥の手”が決まった。春夏通じて16年ぶり6度目の全国制覇−。広商野球の開花と共に、一つの時代が幕を下ろした。



 春のセンバツで“怪物”江川擁する作新を下しながら、決勝で横浜に延長戦の末に敗れた広島商は、畠山圭司部長の「夏までにあと2点取る野球を身につけ、甲子園に帰ってこよう!!」という言葉通り、夏の広島県大会を苦戦を強いられながらも勝ち上がった。

 3回戦の庄原実戦は延長14回、準決勝の尾道商戦も延長10回の末にサヨナラ勝ち。決勝の相手・崇徳は春の県大会で敗れた因縁の相手(※1)だったが、見事に雪辱を果たした。そして「第55回全国高校野球選手権大会」に駒を進め、8月8日、春に悔し涙を流した甲子園の土を再び踏む。

 春の覇者・横浜が県大会で敗れたため、準Vの広商が「甲子園で最も経験のあるチーム」(迫田穆成監督)となった。その強みをいかんなく発揮し、初戦の双葉(福島)、2回戦・鳴門工、3回戦・日田林工(大分)を撃破。特に3回戦は2点のビハインドを2ランスクイズで逆転して勝ち切った。この勢いで準々決勝は高知商(高知)を、そして準決勝では川越工(埼玉)に完勝する。

 順調に決勝まで歩を進めた広商に対し、全国の高校野球ファンの話題をさらった作新学院・江川は、何と2回戦の銚子商戦で敗退(※2)。決勝の相手は、その銚子商を準々決勝で破った静岡だった。スタンドは5万8000人の大観衆で埋め尽くされた。1973年8月22日。乾坤一擲の気迫を込め、広商ナインはグラウンドに飛び散った。

 試合は広商が先に2点を先取。中盤から静岡が反撃に移って八回に同点に追いついた。白熱の展開に終止符が打たれたのは九回裏。1死満塁と攻め立てた広商・迫田監督は、途中出場の八番・大利にカウント2−2から何と3バントスクイズを命じる。絶対外されないという読みの下「2ストライク後しか考えなかった」という必勝の策。コツンと当てられた球はコロコロと三塁線に転がって内野安打となる間に、三走・楠原がサヨナラの本塁を踏んだ。夏は16年ぶり5度目、通算6度目の全国Vが広商伝統の機動力野球でもたらされた。

 地鳴りのような大歓声の中、誇らしげに凱歌を上げた広商ナインを、当時の中国新聞社で担当していた早川文司(現スポーツライター)はこう評した。

 「3年生が9人しかいない中、2年生に達川をはじめ個性的な選手が多く、その2年生を3年生が支えたからこそ達成できた優勝だったと思います。特に主将・金光の統率力、リーダーシップがチームを一つにまとめた。『決して自分たちは抜きん出た力はない』という謙虚さにあふれたチームでした」

 そんな選手たちを縦横無尽に走り回らせた迫田監督の手腕にも早川は一目置く。「ユーモアにあふれ、しかも選手の操縦術に素晴らしくたけていました。決して抑えつけるのではなく、理解させながら実力を伸ばす、最高の指導者でしたね」。選手、そして監督として全国の頂点に立った名将はその後、広商を離れ、如水館監督として母校と相まみえることになる。

 高校球界はこの年を最後に金属バットが導入(※3)され、新たな時代に突入する。各校が対応に追われる中、1976年春、広商、広陵の陰に隠れていた崇徳が快挙をやってのけた。



 ※1 春のセンバツ準優勝後の県大会準決勝で激突。2点を先制しながら2−5と逆転負けを喫した。崇徳の左腕エース・藤原は県内でも屈指の好投手で評判だった。

 ※2 作新・江川、銚子商・土屋の投手戦は途中から土砂降りの雨。0−0で迎えた延長十二回裏、1死満塁のピンチを招いた江川はフルカウントから投じた169球目が痛恨の押し出し四球。サヨナラ負けで高校野球人生が幕を閉じた。

 ※3 金属バットが導入されたのは1974(昭和49)年夏の選手権大会。この大会の本塁打数は11本で、第1号を放ったのは大国正雄(三国)。その後、84(昭和59)年には47本に到達。PL学園・清原和博が3打席連続本塁打を記録、翌年には大会5本塁打をマーク、今年の広陵・中村に抜かれるまで記録ホルダーだった。ちなみに、99回大会の今年は過去最高の68本塁打が飛び出した。