先月中旬、NHKのBS1で放映されたプロ野球ドキュメンタリー番組の「レジェンドの目撃者」に出させていただいた。

 今回のレジェンドが「鉄人・衣笠祥雄」とあって、証言した目撃者は外木場義郎、水谷実雄、江夏豊、山本浩二、高橋慶彦の各氏らカープ往年のスター選手がずらり。最後に衣笠選手が持つ連続試合出場の世界記録を更新した元ヤンキースのカル・リプケン氏も登場とあれば、「チョイ役」でも出演させてもらったことは、冥土での土産話ぐらいにはなるかと思っている。

 一連の回顧の中で視聴者が一番の関心を持って見たのは、衣笠が死球で左肩亀裂骨折したにもかかわらず代打出場し、3球三振した場面。そして近鉄との日本シリーズ第7戦で九回無死満塁のピンチを迎えた際、カープベンチの継投の動きを気にした江夏を衣笠が慰めに行った「江夏の21球」の一シーンではなかったか。

 この舞台になった年が1979年。こんな名ドラマがあった同年は、確かにカープが球界の主役を演じ、巨人が主体だったセ・リーグのペナントレースの流れを変えたシーズンでもあった。

 その予感はあった。前年の78年は攻撃陣が山本浩を中心に、球界初の「200発打線」の威力を発揮。投手陣は76年最多勝の池谷公二郎、77年同の高橋里志、抑えに前年、南海から江夏を迎えて防御力も備えていた。しかし、序盤の打線は山本浩と衣笠が不調。投手陣は高橋里が誤算で、前評判がよかったチームは前半戦を4位で折り返した。

 こんな窮状を救う大きな要因となったのが江夏の奮闘。既に肘と肩はボロボロだったが、全試合にベンチ入りし、8連投もやってのけたし、7試合連続セーブの当時のプロ野球記録まで打ち立てている。確かに救援投手として、球界初のMVPを獲得した同年は江夏の年だったのだ。

 こうした快投も、「反骨の一匹オオカミ」と呼ばれた男の意地と誇りが源泉になっていたに違いなかった。それがシーズンの胴上げ投手となった阪神戦で初めて結実し、男泣きに泣いたその様は、また同年の名シーンとして脳裏に焼き付いている。

 そして王貞治の8年連続打点王を阻止し、これを境に球界一の強打者の地位を築いた山本浩の勝負強さも記憶に残るが、見逃せないのが若手の躍進だった。4年目の北別府学は勝ち頭となる17勝を挙げてエースの座を確保。5年目の高橋慶は打率3割4厘、55盗塁で初の盗塁王になったほか、33試合連続安打のプロ野球新記録を樹立し、ここからスター街道を歩んだ。

 この2人だけではない。8月下旬まで続いた乱セを断つ切り札となったのが山根和夫。7月中旬にプロ初勝利を飾ると、快速球とフォークを武器に最終的には8勝を挙げたばかりでなく、日本シリーズでも2勝し、初の日本一の立役者となっている。さらには大野豊。中継ぎとしてリーグ最多の58試合に登板し、飛躍の足掛かりとしている。

 こうして振り返ると、79年は当時の千両役者と次代を担う若手が見事なタッグを組んで勝ち得た栄光だったといえよう。さらには古葉竹識監督が仕込んだ「機動力野球」や「抜け目のない野球」といった「赤ヘル野球」も、軌道に乗った年ではなかったか。

 その意味では79年は、球団史の中で特筆すべき年。それと比較すると、今のカープが演じている野球はどうか。「機動力なし野球」や盗塁をされ放題などの「抜け目のある野球」といった味のない野球を恨めしく眺めている昨今である。

 永山貞義(ながやま・さだよし)1949年2月、広島県海田町生まれ。広島商−法大と進んだ後、72年、中国新聞社に入社。カープには初優勝した75年夏から30年以上関わり、コラムの「球炎」は通算19年担当。運動部長を経て編集委員。現在は契約社員の囲碁担当で地元大会の観戦記などを書いている。広島商時代の66年、夏の甲子園大会に3番打者として出場。優勝候補に挙げられたが、1回戦で桐生(群馬)に敗れた。カープ監督を務めた故・三村敏之氏は同期。阪神で活躍した山本和行氏は一つ下でエースだった。