【安仁屋宗八傳1】(前編)

 安仁屋宗八が刻んだ球歴は沖縄の野球史を浮き彫りにする。米国占領下時代の1962年夏、沖縄高校のエースとして実力で初めて甲子園大会に出場、社会人・琉球煙草在籍時には都市対抗で、沖縄県人として初めて後楽園球場(現東京ドーム)のマウンドを踏んだ。プロ入り後も沖縄の期待を一身に背負い、常に全力で応えた姿に戦後の沖縄の歴史も重なる。シュートを武器に巨人戦通算34勝を挙げて記録よりも記憶に残る「沖縄の星」。その右腕の歴史を追う。

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 安仁屋宗八は後になって“巨人キラー”と呼ばれる出発点となった試合内容をほとんど覚えていない。

 入団時に公私ともに世話になったフィーバー平山に抱きつかれ、一塁手の藤井からウイニングボールを渡されて我に返り、「ああ、巨人に勝ったんだ」と実感したという。

 1964(昭和39)年の6月14日、広島市民球場。巨人ダブルヘッダー第2試合。ルーキーは被安打4、失点1。2対1のスコアは投手にとっては最も神経をすり減らす完投勝利だった。

 当時、米国占領下の沖縄からのプロ入りということで、どちらかといえば話題性が先行していた。この試合時、19歳10カ月だった。

 デビューは5月31日の国鉄戦(現ヤクルト)である。先発して負け投手となった。以後、6試合すべて中継ぎでの登板だった。

 先発を伝えられたのは第2試合の直前だった。先発予定投手が突然、歯痛を訴えて急きょの代役だった。

 第1試合でリリーフに備えていたが、大石が完投勝利を挙げて、出番がなかった。広島首脳陣は「どこまで投げられるか試す」狙いがあった。当時、セの新人投手が巨人戦で好投できるかどうかで、力量の大小を判断していた。

 「巨人相手に登板するのは子どものころからの夢だった。実現して、王さんや長嶋さんに投げるんだと思うと、もの凄く緊張した」

 安仁屋はこう振り返ったが、武者震いとともに、このチャンスに、恐ろしいまでの集中力で立ち向かった。

 与えられたチャンスをどう生かすのか。プロ、アマは関係ない。笑うのか、うなだれるのか。安仁屋の球歴をたどると、ここぞの時には必ず持てる力を発揮している。

 この試合もそうだった。試合中、背番号「16」は巨人打者の顔を見ずに、田中尊捕手が構えるミットだけを目がけた。サインには1球たりとも首を振っていない。