【安仁屋宗八傳1】(後編)

 子どものころから巨人ファンだった安仁屋はこう話した。「ファンはファン、敵と味方に分かれたら、巨人に勝つことを第一の念願にしていた。それだけになんとも言えない気持ちです」

 「ONに何を投げたのか覚えていない」というが、その2人を8打数1安打と抑えての初勝利でもあった。

 午後7時27分にプレーボール、試合終了は午後9時37分だった。広島市民球場は新ヒーローの誕生に沸きに沸いていた。

 そのころ、沖縄の家々では誰もがラジオにかじりついていた。沖縄・那覇の国際通りにある電器店の店頭ラジオの前で、大勢の人々が声援を送っていた。

 那覇・松尾の実家では長兄の宗一をはじめ親戚・親類一同が集まり、「宗八、頑張れ」とラジオに向かって叫んでいた。勝利の瞬間、至るところで「勝ったあ!」「やったぞ!」の歓声が起こった。

 沖縄はまだ本土復帰前である。そんな時代に高校時代から沖縄の期待を1人引き受けて、プロ野球の世界で羽ばたこうとする安仁屋は希望の星であり、ヒーローだった。

 地元の琉球新報は松尾の実家を取材し、翌15日に社会面で掲載している。写真説明には「親類もいっぱいつめかけてハチの勝利にわく安仁屋投手の家族」とある。

 ハチは安仁屋の愛称で沖縄の誰もが知っている。高校時代から安仁屋を取材していた記者は「みんなのハチが勝ったんだ」と言いたかったのだろう。

 安仁屋はプロ初勝利を巨人戦で挙げて自信を持ち、この年から1軍に定着し、やがて広島投手陣の屋台骨を背負っていく。=一部敬称略=

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 安仁屋宗八(あにや・そうはち)1944年8月17日、沖縄県那覇市出身。沖縄高校(現沖縄尚学)から琉球煙草を経て64年広島カープに入団。沖縄高時代は甲子園に出場、琉球煙草では大分鉄道管理局の補強選手として沖縄の社会人野球から初めて都市対抗に出場した。

 広島に入団後は2年目からローテーション投手として活躍。68年に23勝11敗(防御率2.07)で広島初のAクラス入り(3位)に貢献。75年阪神に移籍。同年、最優秀投手賞(防御率1.91)、カムバック賞を受賞。80年、広島に復帰。引退後は投手コーチ、2軍監督を歴任。655試合に登板し119勝124敗22S。現在は広島OB会会長、デイリースポーツを中心に評論活動を行っている。