【安仁屋宗八傳4】(後編)

 このころ、沖縄では本土復帰への運動が高まりつつあったが、復帰はまだ先の話とみられていた。首里の出場は「一日日本復帰」とも言われた。

 甲子園に乗り込んだ沖縄の人々は大歓声で首里高を応援した。一大イベントを利用し沖縄の日本復帰にかける思いを全国民に伝え、世論を喚起したかったのだ。

 そんな時代背景の中、安仁屋は1、2年と本人いわく、「遊びながら」野球を「楽しんで」いた。3年時は控え投手兼一塁手だ。

 「那覇中は大会に出ても1、2回戦あたりで負けた。エースがいてね。彼がほとんど投げていた。たまに投げても一塁に回ることが多かった」

 ただ巨人への関心は強かった。「あのころ、沖縄には巨人しかない。1日遅れの新聞は巨人を大きく取り上げているし、野球雑誌もそうだった。月に1、2度テレビで録画放送される巨人戦がなによりの楽しみだった」

 安仁屋の実感では当時の沖縄、テレビが30世帯から50世帯に1台だったという。幸運なことに、隣家が金持ちでテレビがあった。巨人戦となるといそいそと出掛けたのだ。

 中学時代、野球に関する最大の思い出は「お父さんに新品の革のグラブを買ってもらったこと」と懐かしそうに振り返る。

 安仁屋は60年の春、新設して4年目を迎えた私立沖縄高校に入学する。=敬称略=