【横山やすし物語13】

 昭和50(1975)年10月にフジテレビ系列で「花王名人劇場」(演出・澤田隆治)がスタートし「爆笑!漫才新幹線」(80年1月20日放送)では、横山やすし・西川きよしがB&B、セントルイスを圧倒した。

 やすし・きよしは国立演芸場で漫才独演会を開き(80年10月29日)、翌年春には花王名人大賞も受賞した。

 この時点でやすし・きよしは6本のレギュラー番組を抱えていた。

 「花王名人劇場」とともにブームを引っ張った「THE・MANZAI」(演出・横澤彪、80年4月スタート)など、テレビ番組はこぞって漫才を取り上げ、どのチャンネルを回しても漫才の流れない日はなかったといわれる空前のブームであった。

 漫才コンビとしての「やす・きよ」は、おそらくこのあたりから数年がピークではなかったのか。

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 話を横山やすしに絞って昭和60(85)年までの主な出来事を記しておく。

 昭和56(81)年8月26日、酒気帯び運転で厳重警告処分。

 同年9月、自叙伝『ど根性漫才記・まいど横山やすしです』の中に差別発言。「すまん、喧嘩のはずみで出た文句や」と土下座。

 同年10月24日、モーターボートの購入で知人から借りた70万円の返済を巡り、訴えられる。

 昭和57(82)年4月20日、モーターボート事故で全治10日間のケガ。

 同年10月、久米宏の「TVスクランブル」(日本テレビ)への出演スタート。横山やすしが単独で人気を得だす。

 昭和58(83)年4月、木村一八が芸能界デビュー。「今晩、一八がテレビに出よるねん。見たってや」と、その後、父親の顔に戻って周囲に言いまくっていたやっさんを何度も見た。

 同年8月、東映の正月映画「唐獅子株式会社」への出演決定。

 同年10月、セスナ機「月光号」を5200万円で衝動買い。マスコミに披露。「ワシはなあ、死ぬときはこれで堕(お)ちたるねん。まあワシ専用の空飛ぶカンオケやなあ」と悦に入っていた。

 昭和59(84)年4月。「テレビ演芸」(テレビ朝日)の司会で若手タレントに暴行。

 同年11月11日。「TVスクランブル」を無断で休み降板(無期限謹慎)となる。それでもその暮れには2度目の「上方お笑い大賞」を受ける。

 昭和60(85)年に下った大阪地裁からの借金返済命令(380万円)を履行せず、翌年の3月に自宅の家具や電化製品を差し押さえられる。

 なんとも派手な出来事が次々とあったことになる。

 それでも“突っ張りやすし”には、どれもこれも芯からこたえてはいなかった。「まあいろいろあるがな」程度のことではなかったのか。=敬称略=