【名将・高嶋仁の半生19】(後編)

 ノックが打てないことは成績にも直結した。甲子園に出場しても守備のミスが目立ち、12〜15年は甲子園初戦敗退。また「もう蹴っ飛ばせないからな。選手も言う事聞かん」と嘆くように、時代の流れとともに指導法も変えざるを得なかった。大阪桐蔭、光星学院などの台頭を許し「他の学校が勝って智弁(和歌山)だけ置いて行かれる。監督が悪いと思った」と学校側に何度となく辞意を伝えた。勇退報道も出て、周囲は「高嶋監督時代」の終わりを感じていた。

 部長、コーチとして高嶋を長年支えた林守(現京都文教監督)は「あの頃、選手に『高嶋先生は今年で辞めるかもしれんぞ』と伝えた」と振り返る。「低迷していたのもあり『高嶋先生が成績不振で代わるというのはいかん。勇退という花道を作ってやらないと。だから必ず甲子園へ行かないかんぞ』と選手に話した」と意識を高めさせようと努めた。

 そんな高嶋が再び奮い立ったのは、教え子たちの姿があったからだ。16年入学の林晃汰(現広島)ら有望な選手を迎え「こいつらを何とかせないかん」と、闘志に再び着火。強豪・大阪桐蔭の存在も大きな刺激だった。「勝つまで辞められん」と必勝を自らに課した。しかし高嶋の甲子園勝利は18年センバツ準決勝の東海大相模戦が最後となった。大阪桐蔭には17年春の近畿大会から18年春の近畿大会決勝まで5戦全敗に終わった。(敬称略)