【五輪に愛され続けた男・野村忠宏1】(前編)

 五輪の女神に愛され続けた男がいた。野村忠宏は柔道男子60キロ級で五輪に3度出場。初出場の96年アトランタから00年シドニー、04年アテネと一度も負けなかった。五輪3連覇は当時、全競技を通じてもアジア人初の快挙だった。一方で、世界選手権の金メダルは97年パリ大会の1個だけ。五輪前後は勝てないことも多く、負傷にも苦しんだ。負けて強くなり、ケガを克服して成長する−女神が思わずほほ笑むような競技人生をたどる。

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 野村忠宏が生まれ育った奈良県広陵町は、大阪市内から30キロほどという地理的好条件もあり、人口(現在約3万5000人)が増加し続けてきたベッドタウンでもある。丘陵地帯と川に囲まれた町内にある讃岐神社には、「竹取物語」が伝承されるため、町は「かぐや姫のまち」とPRする。

 昭和13(1938)年、農家で代々稲作を続けていた野村彦忠は、広大な田畑の一部を投じ当時は全国にもまだ多くなかった私設柔道場「豊徳館野村柔道場」をここに建てた。彦忠は野村の祖父で、野村の父・基次は現在も道場の館長として幼児クラスから一般まで、日々の指導にあたるため畳に立つ。29歳で初代館長となった彦忠自身、黒帯でも、柔道での特別なキャリアがあったわけではない。道場の沿革によれば、道場を開設した理由は、青少年の育成、地域への貢献にあったという。

 クリスチャンでもあった彦忠は「三愛の精神」を生涯の信念とした。「神を愛し、人を愛し、土を愛す」。だからこそ道場は子どもたちを大切に育む場であった。

 柔道で初のオリンピック3連覇の偉業を成し遂げた忠宏、強豪・天理高校の監督を務めた父、忠宏のひとつ上の兄で天理高校で活躍した忠寿(現在、豊徳館・野村整骨院院長)、叔父でミュンヘン五輪金メダリストの豊和と、柔道ファミリーの経歴はあまりにも輝かしい。しかし彦忠が伝えたのは、勝利至上主義では決してなかった。柔道を通じ、子どものおおらかな成長を見守る三愛の精神に満ち溢れた道場にこそ、希代の柔道家のルーツがある。