【五輪に愛され続けた男・野村忠宏4】(後編)

 「そんな話はお互いにしませんでしたが、自分が先輩たちに厳しく絞られそうになる前にはいつも2年生の兄貴が、3年や自分の同級生に挟まれながら“オレに免じてアイツのことは…”とフォローをしてくれたそうです。優しい人だったんです、兄貴は。きっと優し過ぎて、柔道を辞めたんじゃないかと思っています」

 互いの気持ちを知るのは、何かの取材に間接的に触れる際で、直接的な会話はない。しかしその分、豊徳館・野村整骨院院長である兄への想いがにじむ。

 天理高校が狙うのは団体での全国優勝。体重45キロの高校1年には、はるか遠くに思える別世界でもあった。忠寿には「ほかの部員の何倍でも練習する覚悟で来い」と厳しく突き放した父からは「無理して柔道を続けんでいいぞ」と、諦められているとも感じていた。

 一方、軽量を補ってあまりある重い反骨の塊がこの言葉によって、野村の中で強く大きく育って行った。「根拠なき自信」とでも表現すればいいのか。

 祖父が建てた豊徳館では、祖父の方針で技はシンプルな教え方がされていた。体が比較的大きい子どもたちは、大外刈りと払い腰を教えられ、野村のように小さい子どもたちは「背負い投げ」を最初に教わる。もちろん、小学生で得意技と胸を張れるようなレベルには至らなかったが、天理高校に入り、幼い頃から鍛錬し続けた技が少しずつ形になるのを感じるようになった。

 「今の自分に見切りをつけてあきらめるのはもったいない。子どもながらに、そんなことを考えていた」(自著「戦う理由」)

 自信の源は「背負い投げ」だった。根拠はあったのだ。=敬称略=