【五輪に愛され続けた男・野村忠宏5】(前編)

 08年に99歳で他界した「豊徳館・野村道場」の初代館長である祖父・彦忠は、特別なキャリアの持ち主ではなく、道場で子どもたちを教えるボランティアにも、国際大会で活躍するような経歴の持ち主はいなかった。

 しかし、大輪を咲かせる小さな「種」とは、一体どんな土壌に蒔かれていたのか、それを周囲が知るのは長い時間が経ってからの話で、もちろん本人も、この環境だからこそ、などと気が付くものではない。そこに指導の面白さが潜んでいる。

 そうした町道場で、勝利至上の柔道を叩き込まれなかった環境は、中学入学時に体重32キロ、3年でもやっと45キロの野村忠宏にとって特別なものだった。道場では大柄な子どもは主に大外刈りと払い腰、小柄な子どもには背負い投げと、いたってシンプルな基本技の教え方をする。野村はもちろん背負い投げを教えられるグループだった。この技しかかけないので必然的に得意技となる。基本を繰り返すなかで、野村少年は自分だけの背負いを少しずつ体得して行った。

 天理大入学時にようやく55キロにたどりつくような特別に非力な柔道家の、五輪3連覇を果たすようなメンタリティがどこにあったのかといえば、この背負い投げにある。体重が足りなくても、道着を身に付けられず腹筋や腕立てのみのトレーニングであっても、魂に宿る「背負い投げ」が支えだった。天理中の卒業文集には、夢でもなく、目標でもなく、同年代の中学生とはかなり違った一文が残っているそうだ。

 「一撃必殺。背負い投げ」