【五輪に愛され続けた男・野村忠宏7】(前編)

 野村忠宏が、五輪への入り口となる天理大学に入学した際の体重は55キロだった。中・高と繰り返した基礎練習と、腕立て伏せ、腹筋、初めての全国大会出場で手にした、まだ形の定まらない自信と、同じ年の徳野和彦に喫した屈辱的な敗戦。これらは野村の身体を、ただ体重計で測る数字のみだけではなく、間違いなく「重く」していた。

 天理大では、84年ロサンゼルス五輪60キロ級金メダリスト、細川伸二に指導を受ける。細川は、ロス五輪後に一度は一線を退いて教師に専念していたが88年ソウル五輪を前に現役に復帰し、同大会で銅メダルを獲得。野村の父・基次の教え子でもあり、幼い頃からよく知る、しかし同じ軽量級の柔道家として神のような存在の人物だった。

 高校3年で初めてインターハイに出場し、全日本ジュニア選手権で準優勝を果たしてようやく全柔連(全日本柔道連盟)指定のジュニア強化選手に名前を連ねるようにはなっていた。

 しかし大学での競技も負けから始まった。強豪だけに、関西学生大会に出場するためにはまず校内予選を勝ち抜かなくてはならないが、そこですら連敗する。全国大会以前のレベルだ。実力に波がある欠点を感じていた大学2年の春、細川の研究室に呼ばれた。

 「お前の練習は、試合で勝つための練習ではない」

 1年の間、柔道のアドバイスはほとんどなかった相手に、まるで「一本」のような鋭い言葉で投げられたような気分だった。