【五輪に愛され続けた男・野村忠宏12】(前編)

 五輪を夢や憧れのように捉えてはいなかった大学4年、21歳の野村忠宏に、代表選出は「やべぇ、五輪代表になってもうた」といった驚きばかりだった。

 一方で、野村家とは、五輪と深いつながりを持っており、環境が子どもに大きな負担にならなかったほうが不思議なほどだ。

 父・基次の弟で、野村の叔父にあたる豊和は、1972年のミュンヘン五輪軽中量級の金メダリストだ。五輪ではオール一本勝ち、決勝も「秒殺」(1分以内で決着)という伝説の柔道家でもある。しかし野村が誕生する74年以降、和歌山で教員を務めており、直接指導をされたり、五輪教育を受けるなどの機会は全くなかった。少しくらい自慢話が伝わっても良さそうなものだが、それもない。こうした控えめな空気は、やはり祖父・彦忠が道場の教えとして徹底していた「勝敗へのこだわりではなく礼儀を、勝ちを追求するのではなく柔道を楽しむように」との教えが、家訓にも似て守られる存在だったからだろうか。

 基次も天理大まで柔道部に在籍し、64年東京五輪の際には、重量級で神永昭夫(93年に56歳で死去)を下したアントン・ヘーシンク(オランダ、2010年に76歳で死去)の乱取り相手を務めている。当時、聖地とも呼ばれた重量級で金メダルを失った日本の落胆ぶりは想像に難くない。しかし基次は、練習相手として実感したヘーシンクのパワーに「これからの柔道には、パワーがいる」と学んでいたという。