【五輪に愛され続けた男・野村忠宏12】(後編)

 野村が幼い頃、スイミングスクールに通ったのは、母・八詠子がコーチをしていたからだ。八詠子もまた、東京五輪の競泳で有力候補選手の1人で、代表にはなれなかったが、奈良で聖火ランナーを務めた。野村が3連覇を果たしたアテネ五輪前には、自ら応募し、3連覇の願掛けに聖火ランナーとして東京を走っていた。

 アテネ前、足を痛めて杖をついている八詠子を観客席で見かけた。

 「あの子がどこかケガせんでいいように、私が身代わりになっておきました。もう大丈夫です」

 そう言って笑顔を見せた。スポーツマインドをまとった女性だ。

 両親、叔父と、決して五輪と無縁な環境にいたのではないが、それは負担でも、目標でもない。初の五輪は、こうした自然体の取り組み、「無欲の野心」ともいうべき精神力が最大限に発揮された大会となる。五輪が迫ってくると「オレが代表でいいんだろうか」と、不安にもなる。しかし不安と向き合っていると、今度は「ジタバタしても始まらない」と、自信がよみがえる。「YAWARAちゃん」と、2度目の五輪で大きな期待を集めていた田村亮子たちに取材が殺到するなか、個人取材の依頼はなく寂しいものだった。

 アトランタへの出発で成田空港に着くと、田村に殺到するカメラマンに本当に突き飛ばされた。

 「さすがに、どけ!とは言われませんでしたが、同じ代表にこの扱いはどうやねん、とムクムクと…」

 無礼な取材陣が、驚異の反骨心に火を点けた。

=敬称略=