【五輪に愛され続けた男・野村忠宏15】(後編)

 体協に勤務しながら、奈良教育大の大学院に通う毎日、決して環境が整っているわけではなく、給料は体のメンテナンスにまでは回らなかった。

 1997年、そうした環境をバネにパリの世界選手権に出場。決勝では、前年の五輪に続き背負い投げでレワジシビリ(当時グルジア)に一本勝ちし、五輪の金はまぐれなどではなかったと世界に証明した。しかし世界の大舞台を2年連続で制しても取り巻く環境は好転しない。

 そんな中、「ミキハウス」(本社・大阪八尾市)が、男子柔道選手として初めての入社を申し出てくれた。天理大の先輩の助けによるもので、天理大での練習ほか環境は変えずに、社員として給料をもらう。スポーツを、選手を心から愛する木村皓一社長の信念は、「金は出しても口は出さない」といった寛大なもので、当時からマイナーゆえに就職できない個人競技の選手たちを積極的に支援した。

 五輪、世界選手権と連続で金メダルを獲得し、目標を見失いかけていたが、00年シドニー五輪を目指す道筋が生まれた。立場はアマチュア会社員でも、柔道で生計を立てるプロ。そう覚悟を決められたからだ。

 木村に、「なぜミキハウスに来て柔道をするのか」と問われた野村は、即座に「軽量級初の連続金メダルを取るためです」と答えた。

=敬称略=