【五輪に愛され続けた男・野村忠宏17】(前編)

 初戦(2回戦)は、中国の賈運兵(チャ・ユンビン)との対戦だった。それに足元をすくわれるかどうかは別として、やはり五輪に魔物は潜んでいる。

 相手の「朽木倒し」で投げられ、開始45秒、野村忠宏の体が回った。この瞬間、日本選手団の誰もが「やられた」と思い、頭を抱えた。しかし本人は、自分の体が宙を舞う絶体絶命のピンチに、体は冷静に反応したと後に振り返った。

 柔道は、技で「投げる」のとは反対に、相手の技を「受ける」ため鍛錬する。いわば、技のリスクマネジメントだ。野村はこの時、体の力を抜き、背中から落下し一本を奪われないよう自分でもう1回転した。トップレベルの体操選手は、特別な空間認知能力を持っており、自分がどこにいて、どう回転しているのかを判断するという。内村航平の圧倒的な空間認知能力はよく知られる。

 大ピンチに、野村もこの恐るべき空間認知能力を発揮する。力んで背中から畳に落下するのではなく、力を抜いてもう1回転したため、胸から畳に落下。一本を奪われたと誰もが思った0コンマの時間、体が小さかったからこそ子どもの頃から磨き続けたこうした「受け」で、一本どころか「効果」さえ取られずに済んだ。野村はこの時「やっべぇ」とばかりに少しだけ苦笑いした。

 3連覇の偉業を振り返ると、常に、この朽木倒しを返した素早い身のこなしを思い出す。初戦敗退を仕掛けようとした「五輪の魔物」は、間違いなくあの畳に潜んでいたのに、目も覚めるような受けでまさにかわした瞬間だった、と。以後、魔物が野村を避けたのだ。