【五輪に愛され続けた男・野村忠宏22】(前編)

 アテネへの出発直前、60キロ級が行われる10日前の乱取り中だった。相手が立ち上がろうとした瞬間、野村忠宏の右わき腹に相手の頭が激突してしまった。あまりの痛みに呼吸もできないほどで、診断は肋軟骨(ろくなんこつ)の損傷。シドニーで軽量級からスタートするよう変わったスケジュールを恨んだ。安静にする以外治療法がないのに、先陣を切るため時間がないからだ。

 五輪では必ず初日の「コンビ」となってしまうYAWARAちゃんは、4度目の五輪を前に結婚し、田村から谷に名字が変わりこの大会は「谷でも金」を掲げていた。しかし足首を痛めて、五輪前にはこれをメディアに公表。日々、細かな情報がメディアに伝えられ、間に合うかどうか、治療法も含めて周囲はやきもきした。

 一方、3連覇を狙う柔道家は正反対の姿勢を貫いた。

 「欠場するなら発表する。しないなら黙って逃げ道を作らず戦うのみ」

 恩師・細川伸二ともそう一致した。間近で取材している者たちに、一切を悟らせないほどの慎重さと情報統制で大会へと準備を進める。3連覇を果たした後、「実はこんな大ケガをしていたんですが…」と告白する。そんなシナリオを描きながら。

 ビビる野村は、試合前になると必ずやって来る。野村が五輪に棲む魔物に無縁だったのは、それ以上に恐ろしい「自分という魔物」としょっちゅう向き合い、これを倒してきたからなのだろう。