【五輪に愛され続けた男・野村忠宏24】(後編)

 男子マラソンの瀬古利彦氏を指導した中村清監督(1985年死去)は「オリンピックでメダルを獲るのは、隕石(いんせき)に当たるより難しい」と話していたという。4年に一度、決められた1日に力を出しきり、しかも隕石に3度も当たりながら、稀代の柔道家のモチベーションは決して枯れたりしなかった。

 3連覇で多くの受賞式に出掛け、取材が殺到する中でも冷静にプランを練る。シドニーからアテネへの4年間は、約2年のブランクを置いて環境を変える中で気持ちが固まるまで時間をかけた。しかしアテネの年に30歳を迎えるのだから、今度は体力を考えても時間はそう残されていない。

 2006年2月、約1年半ぶりに復帰するとチェコ国際で優勝。わずか2年の準備でアテネの金メダルを手にした経験が、3連覇が、コンディショニングに活かされていた。北京五輪前年2007年、ブラジル世界選手権に向けて4月には選考会、全日本選抜体重別選手権で6度目の優勝を果たして代表に選出される。この試合で左ひざ外側じん帯を痛め、世界選手権代表による全日本合宿は辞退した。

 しかし要望は受け入れられず、3連覇を果たしたレジェンドだからこそ、若手の見本になってほしいと合宿参加を求められた。ケガをおしての合宿参加が、苦闘の予兆だった。乱取り中に、右ひざ前十字じん帯を断裂。この大ケガが、その後8年間、引退するまで野村を苦しめる結果となった。=敬称略=