故郷・小豆島の関係者に話を聞き、現役を引退した大相撲の元関脇・琴勇輝(30)=本名・榎本勇起、佐渡ケ嶽部屋=の人となりに迫る。後編は高校中退から入門に至るまでを当時の指導者らに振り返ってもらい、君ケ浜親方としての今後への期待を聞いた。

 「勝」

 約13年前、琴勇輝が小豆島を離れる際、お世話になった人たちへ贈った色紙には、大きな手形とともにその一文字が書かれている。

 2008年1月、高校1年の冬、琴勇輝は卒業を待たずに佐渡ケ嶽部屋に入門。それは突然の決断だった。前年11月の九州場所に佐渡ケ嶽部屋の合宿を見学。四国・高知の明徳義塾出身の琴奨菊から「一緒に強くならないか」と、声をかけられたことも一因となり、帰りの新幹線で母親に決意を告げた。小豆島の関係者はもちろん、受け入れる部屋側も驚く決断。小豆島高相撲部の田中栄一郎監督は、ショックで3日間寝込んでしまった。

 内海中(現小豆島中)入学時から一日も早い大相撲入りを望んでいた。中学で相撲部の顧問を務め、現在は土庄中の校長を務める藤原一章さん(58)は「本人はあまり高校に行きたがらなかったですね」と振り返る。「頭が悪いわけではないが、勉強に興味がなかった」。頭の中は相撲一色。勉強の入り込む隙間はなかった。

 一方で「人前でも堂々と話をすることができた」といい、生徒会にも所属。卒業式では代表として答辞を務めた。藤原さんのアドバイスもあり、100人を超える卒業生から「言って欲しい言葉」を募集。さまざまな意見や言葉を琴勇輝がまとめ上げた。藤原さんは「あれはかなりの感動を誘ったと思います」と、当時を懐かしむ。

 小豆島相撲連盟副会長の柴田研一さん(70)も十数年間、琴勇輝を見守ってきた一人だ。自宅の一室には、所狭しと写真、グッズ、のぼり、新聞の切り抜き、初土俵からの番付表などが並べられている。その資料の量は、ファンから「琴勇輝記念館はありませんか?」という問い合わせがあった際に、町職員が柴田さんの家を紹介したほどだ。

 08年3月の初土俵にも応援に駆けつけた。「体の線も細くてこてんこてんにやられとった。それでも自分から向かっていきよったよ」と、倒されても転がされても向かっていく姿が目に焼き付いている。琴勇輝が小学生のときに出会ってから、一度たりとも「辞めたい」という言葉を聞いたことはない。

 たゆまぬ努力で「勝」ちにこだわった現役時代。今後は君ケ浜親方として、新たなステージに挑む。

 「きちんと自分の言葉で話ができる、いい指導者になると思う」と話すのは藤原さんだ。印象深い出来事がある。中学時代、障がいのある生徒が在籍するクラスが合唱を披露した際、音程が外れ、見ていた生徒から笑いが漏れた。「もうあの子とは歌いたくない」、「こんな時だからこそ一緒に」。クラスは真っ二つに分かれ、全校生徒を巻き込んでの議論に発展。琴勇輝はそこでも積極的に発言していた。

 「自分の心をちゃんと見つめて人前で話す、という経験が中学でできて、相撲界にいっても、自分の言葉で自分の思いを伝えられるようになりました」。引退に際し、これまでを振り返った琴勇輝はそう話したという。親方として、故郷に戻ってきた際には、その経験と相撲界で得たものを子供たちに伝えて欲しい。それが藤原さんの夢のひとつだ。

関取から陥落 したら引退

 番付発表のたび、後援会や応援してくれた人たちに届く番付表には、いつも琴勇輝からの手紙が添えられていた。柴田さんはそのすべてをアルバムに貼って保管している。

 「関取から陥落した時が引退の時」

 そう書かれた最後のメッセージを「これでしまいやな」と、フィルムの間に挟み込んだ。「夢を見させてくれてありがとう、やな」。これ以上増えることはないという大量のグッズを前に、さみしそうに、しかし、どこか満足そうに、感謝の言葉を口にした。(おわり)

 琴勇輝一巖(ことゆうき・かずよし)。本名・榎本勇起。1991年4月2日生まれ。176センチ、172キロ。香川県小豆島町出身(出生は同丸亀市)、佐渡ケ嶽部屋。2008年3月場所で初土俵。13年初場所で新入幕。通算480勝430敗70休。幕内は33場所で207勝229敗59休。最高位は関脇。三賞は殊勲賞1回、金星1つ。年寄「君ケ浜」を襲名した。