5月16日は歌手の西城秀樹さん(享年63)の一周忌。その死を惜しむ声は、いまだに芸能界で絶えない。「渡る世間は鬼ばかり」(TBS系列)など数多くのヒットドラマをプロデュースしてきた石井ふく子さん(92)もその一人で、「本当にもったいない人を亡くした」と嘆く。音楽界からも改めて悼む声が上がる一方、ファンたちも西城さんを愛し続けているようだ。(高堀冬彦/ライター・エディター)

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 歌手を本業としていた西城さんだが、俳優としても活動し、「寺内貫太郎一家」(TBS系列:1974年)などに出演していたのは知られているとおり。昭和を代表する同ドラマでは主人公・貫太郎(小林亜星[86])の長男・周平役を演じた。

 17歳だった1972年に「恋する季節」で歌手デビューし、当初はアイドル扱いをされていたこともあって、俳優業は片手間でやっていたと誤解している向きも一部にあるようだが、それは違う。

 俳優としても高く評価していたドラマ制作者は多く、主演作も複数ある。これまでに1000本以上のドラマを手掛けてきた日本を代表するドラマプロデューサー、石井ふく子 さんも、俳優としての西城さんを高く買っていた一人で、「東芝日曜劇場『翔べイカロスの翼』」(同:1979年)の主演に抜擢した。西城さんの初主演ドラマだった。

 石井さんが振り返る。

「『寺内貫太郎一家』を見ていて、芝居に関する感性がいい人だと思ったので、お会いしてみたんですよ。そうしたら、仕事に対する熱がとても強い人だということが分かったので、『もし、よかったら』と主演をお願いしたんです」

一輪車を猛練習

 現在、TBSの日曜日21時台は、東芝がスポンサーから離れ、「日曜劇場」として連続ドラマを放送しているが、当時は一話完結ドラマを流していた。主演を務めていたのは、森光子(1920〜2012)や池内淳子(1933〜2010)、渥美清(1928〜1996)、吉永小百合(74)ら名優ばかり。当時、まだデビュー8年目の24歳だった西城さんは、さぞ喜んだのではないか。

「いいえ。あの人はそういう感情を表に出す人でないんですよ。けれど、こちらの思いにしっかりと応えてくれる。仕事できっちり返してくれるのです。私たちの世界は、それが一番いいんですよ。歌の仕事がとても忙しい時期だったのに、何回も何回もリハーサルをやってくれて。しかも、いつだって一生懸命でした」(同・石井氏)

 なにしろ、「YOUNG MAN(Y.M.C.A.)」が大ヒットしてから約半年後のことだったのである。

「それとね、西城君が立派だったのは、主演であろうが、自分だけ前に出ようとする人ではなかったところ。ドラマはみんなでつくるもの。それを若いときから、よく知っていました」(同・石井氏)

 このドラマで西城さんが演じたのは若きカメラマン。あるサーカス団を追い掛けて写真を撮っていたところ、熱意が認められ、そのサーカスの共同生活に加えてもらう。それからは団員たちに密着して写真を撮り続けるのだが、やがて芸に命を懸ける団員たちと自分との間に壁を感じはじめる。このため、団長に頼み込み、自分もサーカスの芸を習い始めることに。それは遊び半分ではなく、猛練習で、ついには一輪車などの芸を習得。その努力が認められ、団に迎えられてピエロに抜擢されるのだが、練習中に事故に遭い、帰らぬ人になる――。西城さん自身、猛練習によって一輪車の運転をマスターした。ドラマは高評を得た。

 その後も石井さんは西城さんを重用した。山田風太郎(1922〜2001)の「エドの舞踏会」を原作とし、明治の元勲たちの妻にスポットを当てた3時間のスペシャルドラマ「妻たちの鹿鳴館」(同:1988年)にも起用する。

 いわゆるオールスター作品で、大原麗子(1946〜2009)や若山富三郎(1929〜1992)、小林桂樹(1923〜2010)、田村高廣(1928〜2006)、草笛光子(85)、佐久間良子(80) らが一堂に会したが、石井さんは「その中でも西城君はぜんぜん見劣りしなかった」と追想する。西城さんの役は、すまけい(1935〜2013)が演じた黒田清隆の家の馬丁・山代源八で、黒田の妻・滝子(佐久間)を愛しているという設定だった。

 歌うときには時にダイナミックなアクションを見せたが、ドラマの現場では細かな気配りを欠かさない人だったという。

「周囲にとても気を遣っていましたね。でも、気を遣っていることを相手に分からせないように努めていて、それがとても良かった。気を遣っていると思わせたら、相手にとってはうるさいじゃないですか」(同・石井氏)

秀樹ファンは“熱い”

 仕事には一生懸命に取り組み、周囲への気配りを欠かさない――。そんな西城さんだからなのか、この人ほど悪口を言われない芸能人も珍しいだろう。夫人の美紀さん(46)と結婚前の1989年から90年にかけては、女優の十朱幸代(76)とのロマンスが報じられたものの、醜聞と呼べるものは一切なかった。芸能記者とのトラブルもまた皆無だった。

 かつてコンサートの現場で、西城さんと接していた元運営スタッフの一人が振り返る。

「裏方である我々の前でも態度は変わらず、紳士でしたよ。決して偉ぶらない人でした」

 歌の現場でも常に一生懸命だったという。だが、ある時期から時折、リハーサルはマネージャーに代役をやらせるようになる。2011年12月に3度目の脳梗塞で倒れた後だ。体力的に、リハーサルまでこなすことが難しい日もあったという。

 西城さんは2003年6月にも、ディナーショーのために訪れた韓国で脳梗塞に襲われていた。また、西城さんの他界後に美紀夫人が出した著書「蒼い空へ 夫・西城秀樹との18年」(小学館)で明かされたことだが、実は2001年秋にも脳梗塞を発症していた(対外的には「二次性多血症」と発表)。2度目の脳梗塞までは治療とリハビリによってカムバックを遂げたが、3度目の後は右半身に障害が残ってしまったのだ。

 以降はコンサートで、以前のような切れのいいアクションを見せることができなくなってしまう。だが、ファンは離れなかった。

「音楽業界ではよく知られていることなんですけど、秀樹さんのファンは熱いんです。秀樹さんへの思いがとても強い。だから、必死にステージを務めようとしている秀樹さんのアクションがぎこちなかろうが、誰も失望なんてしなかった」(同・元コンサート運営スタッフ)

 2016年に東京の中野サンプラザホールなどで行われたデビュー45周年記念コンサート「HIDEKI SAIJO 45th ANNIVERSARY CONCERT 2016」では、体を思うように動かせないのに、懸命に歌う西城さんを見て、涙を流すファンが続出した。ひたむきな西城さんの姿に、ファンは胸を打たれていたのだ。

「一生懸命」

 日本人離れした迫力あるアクションが印象深い西城さんだが、歌唱力の評価も極めて高い。デビュー時に所属していたビクター音楽産業(現JVCケンウッド・ビクターエンタテインメント)の元制作幹部が証言する。

「シャウト系の歌もバラードも完璧にこなせた。歌に抑揚を付けるのがうまく、発声のコントロールがきちんとできていたからです。どちらも完璧に歌うのは、実はプロでも難しい。高い歌唱力を持っている人にしかできない」

 シャウト系の歌の一つが「情熱の嵐」(1973年)であり、バラードのそれは「ブルースカイブルー」(1978年)である。

「シャウト系の歌には、歌唱力が鮮明に現れるんですよ。うまくない人は、がなっているように聴こえてしまう。でも秀樹さんは違った。また、しっとりしたバラードもうまく、そのうえ味があった。最初から歌のうまい人でしたが、経験を積むうち、よりうまくなりました。売れてからも向上心を失わず、一生懸命やる人でしたから」(同・元レコード制作幹部)

 西城さんという人を表すキーワードの一つは「一生懸命」らしい。だが、それが裏目に出たこともあるようだ。3度目の脳梗塞は、2度目の脳梗塞後のリハビリを頑張り過ぎたために招いたとも伝えられた。

 ただし、最後まで何事にも妥協せず、全力で取り組んだ西城さんだからこそ、今もファンの心を引き寄せ続けているのだろう。

 5月14日から17日までは東京・豊洲PITで、一周忌に合わせたフィルムコンサート「HIDEKI SAIJO FILM CONCERT 2019 THE 48」がファンの要望に応えて行われる。また、一周忌の同16日には、全シングル表題曲87作品が収められた「HIDEKI UNFORGETTABLE-HIDEKI SAIJO ALL TIME SINGLES SINCE1972」(CD5枚、DVD1枚、写真集セット)が、やはりファンの声に応える形で発売される。

 ファンクラブ「プラネッツ オブ アース」も解散せず、活動を続けている。やはり西城さんのファンは熱いのだ。

 なお、一周忌法要は家族ら近親者のみで執り行われる予定だという。

週刊新潮WEB取材班

2019年5月15日 掲載