「戦後最高のアイドル」と呼ばれた山口百恵(61)が引退し、三浦百恵さんになってから40年。人気はいまだ根強く、楽曲600曲以上のサブスクリプション配信が5月末から始まると、瞬く間に再生回数が100万回を突破した。素顔の百恵さんはどんな人間で、なぜ愛され続けるのか。百恵さんの全楽曲を担当した音楽プロデューサー・酒井政利氏(85)に聞いた。

 CBSソニーの敏腕プロデューサーだった酒井政利氏は、歌手としての百恵さんの育ての親。デビュー曲「としごろ」(1973)から引退ソング「さよならの向う側」(1980)まで全楽曲を担当した。

 百恵さんが愛され続けている理由を酒井氏はこう語る。

「光と影の両面を持つ人だったからです。普段は明るくて清廉な人なんですが、時折、影の部分も感じさせました」

 高い歌唱力を持っていたし、哀感を帯びた低い声も魅力的だったものの、最大の強みは光と影があったところだと酒井氏は指摘する。

「光と影を併せ持った歌手には立体感が生まれ、人を引き付ける力が増します。なにより、光も影もあると、明るい楽曲もドラマチックな楽曲も合うのです」

 確かに百恵さんは歌う楽曲の幅が広かった。阿木燿子さん(75)が作詞し、その夫の宇崎竜堂(74)が作曲した「乙女座宮」(1978)や同じ2人がつくった「しなやかに歌って」(1979)、などは明るく軽快で、まさに光を感じさせた。一方、さだまさし(68)が作詞作曲した「秋桜」(1977)や谷村新司(71)がつくった「いい日旅立ち」(1978)などは憂いに満ち、影を思わせた。

 かと思えば、やはり阿木・宇崎コンビによる「イミテイション・ゴールド」(1977)や「絶体絶命」(1978)などはロック調で力強かった。

「さまざまな楽曲を歌えたのは、光と影を持っていた上、大変な努力家でもあったからです。新曲のレコーディングの際は『あんまり勉強できませんでした』などと言いながらスタジオ入りするのですが、いざ歌い始めると、どの楽曲も完璧に自分のものにしていた。例えば『秋桜』は音域が広く、難しい楽曲なんです。それでも百恵さんは一生懸命に勉強し、歌ってくれました。いつもそうでした」

 真面目だったそうだ。その姿勢は14歳のデビュー時からずっと変わらなかった。

「デビューした当初は音域がやや狭く、だからフォーク調で音域が狭くても歌える『としごろ』を用意したのですが、本人が積極的にレッスンを受け、すぐに音域を広げました。そのころは言葉少なな少女でしたが、いつも私たち大人の話を真剣に聞いてくれていたのをおぼえています。だから、私たちもいい加減なことは言えませんでした」

 百恵さんが女優活動も行い、演技の勉強をしていたことも、歌手としての成功につながったと見ている。表現力が備わったからだ。

「歌、表情、ボディアクションのすべてに素晴らしい表現力がありました」

 1978年に阿木・宇崎夫妻がつくった「プレイバックPart2」をレコーディングした際にはまるで女優だったそうだ。

「突っ張った女性を歌った楽曲でしたが、百恵さん自身、スタジオ入りする時から突っ張った女性になりきっていました。私たちとほとんど話さず、スタジオの隅のほうに行き、一人で座っていた。レコーディング中も突っ張った表情のまま。ところが、歌い終えると、これ以上ないような爽やかな笑顔を浮かべたのです」

 女優としても第一線で活躍していた百恵さんにとって、約3分間の各楽曲はショートドラマのようなものだったのかも知れない。

 百恵さんには音楽的センスもあった。酒井氏は、阿木・宇崎夫妻と百恵さんを結び付けた端緒が本人にあったことを明かす。

「百恵さんの多面性を生かすため、さまざまな作家に楽曲づくりをお願いしてしましたが、あるとき、私のアシスタントに百恵さんが『きのうの夜、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを聴いたんですよ』と話したのです。それを伝え聞いた私は『なるほど、ダウン・タウンの突っ張ったイメージも百恵さんには合うな』と思い、竜堂さんに連絡を入れたのでした」

 そして生まれた阿木・宇崎夫妻の第1弾は「横須賀ストーリー」(1976)だった。ヒットチャートで1位を獲得し、売り上げは80万枚を超えた。なにより、当時17歳だった百恵さんの幅が飛躍的に広がった。

「詞のテーマに『横須賀』を選んだのは阿木さんでした。百恵さんの生地です」

 物語性の強い楽曲を好む酒井氏も満足する仕上がりだった。

♪急な坂道 駆けのぼったら 今も海が見えるでしょうか ここは横須賀――

「プロデューサーの私としては、売れてくれたら横浜でも良かったんですけどね(笑)」と冗談めかすが、この楽曲は横須賀と切り離せないものとなり、2008年からは京浜急行電鉄本線「横須賀中央駅」の電車接近メロディーにも使われている。

 阿木・宇崎夫妻と百恵さんはその後もヒットを飛ばしたものの、酒井氏はあえて曲調の違う「パールカラーにゆれて」(1976年、作詞・千家和也、作曲・佐瀬寿一)なども用意した。

「これも百恵さんの多面性を生かすことが目的ですし、ファンを飽きさせないためでもあったのです」

 さだまさしに「秋桜」を依頼した理由も同じ。

「百恵さんの突っ張りのイメージが強くなり過ぎていた時期だったので、それを少し落とそうと思いました。さださんにお願いしようと思ったのは、突っ張りと真逆だからです」

 酒井氏の要請に百恵さんが全て応えられたのは、持って生まれた才能があり、努力も惜しまなかったからにほかならない。

引退は「惜しくなかった」

 もっとも、人気絶頂時の1980年に百恵さんは引退する。活動期間は約8年に過ぎなかった。まだ21歳と若かったこともあり、酒井氏は残念だったのではないか。

「いいえ。周囲からは不思議がられましたが、残念とか惜しいとかの思いは全くありませんでした。さまざまな楽曲がつくれて、プロデューサー業を満喫させてもらいましたからね。百恵さんとの仕事は実に楽しかった。だから『幸せになってほしい』という気持ちしかありませんでした」

 阿木・宇崎夫妻による引退ソング「さよならの向こう側」は酒井氏にとっては会心の出来だったという。酒井氏ははっきりと口にしなかったものの、百恵さんへの祝福として最高の曲をプレゼントしたかったのだろう。

 百恵さんの人気が続く理由はまだある。現役時代から現在に至るまで、悪い評判が一切ない。現役時代も引退後も醜聞が流れたことはない。

 真面目である上、「デビュー当初から周囲との良好な人間関係を自然とつくれる人だった」からだろう。

 いまだ復帰待望論があるのもうなずけるが、「100%ない」というのが関係者の一致した見解。やはり大スターでありながら、43歳で引退すると、二度と表舞台に立たなかった故・原節子さんのような存在と考えるべきなのだろう。

高堀冬彦(ライター、エディター)
1990年、スポーツニッポン新聞社入社。芸能面などを取材・執筆(放送担当)。2010年退社。週刊誌契約記者を経て2016年、毎日新聞出版社入社。「サンデー毎日」記者、編集次長。2019年4月退社。独立。

週刊新潮WEB取材班編集

2020年12月29日 掲載