公開から半世紀を経てなお愛され続ける実録映画の金字塔「仁義なき戦い」シリーズでメガホンをとったのは深作欣二である。粘りに粘る演出で予算や日程を平気でオーバーする深作に東映の経営陣は顔をしかめたが、「もっとないか」「それだけか」とくたくたになるまで演技の可能性を求めてくる彼を俳優たちは愛した。繁華街で、駅のホームで、小型カメラを駆使したゲリラ的な撮影を繰り返すうちに現場は異様な熱を帯びてくる。貴重な証言と膨大な資料を重ね合わせて綴られた傑作評伝『仁義なき戦い 菅原文太伝』(松田美智子著)から、伝説の映画のリアルな現場を紹介する。

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深夜作業組

 1972年11月中旬、深作は広島と呉でロケハンしたのち、京都撮影所のスタジオで撮影を開始した。脚本の笠原和夫はぎりぎりまで京都の定宿で直しを続けていたが、東京本社で「仁義なき戦い」の製作発表が開かれるのを区切りに、帰京している。

 撮影に入った深作は、文太が評した通り、マイペースを貫いた。東西の撮影所の気風の違いなど、どこ吹く風である。むしろ、京撮の独特な雰囲気を楽しんでいた。

 京都における深作について、息子の健太は、こんな話を披露してくれた。

「親父がよく言っていたのは、自分は水戸出身なので茨城弁が抜けなくて、助監督を始めた頃には、興奮すると語尾が上がってしまい、みんなに笑われた。特に女優さんに笑われるのがショックで、一時は失語症になったそうです。でも、京都の撮影所に行ったら、標準語もへったくれもない。全員が関西の人間ではないのに、エセ関西弁で話している。訛は誰も気にしないし、活動屋同士のコミュニケーションができて、気持ちがよかった、と」

 京撮では、東京から気取った監督が来ると、嫌がらせを受けることがあった。格好をつける人間を嫌うのだが、深作にはむしろ好意的だったという。その裏には、深作の盟友というべき中島貞夫監督の協力がある。中島は、深作が京都で仕事をしやすいよう、自分が一番いいと思うスタッフを揃えて、深作組につけたのだ。健太には感謝の気持ちしかない。

「中島さんは、本当に優しくて、天使のような方なんです。あの方がつないでくださったから、親父は京都(撮影所)のしきたりや面倒くさいことも、クリアできた」

 居心地のよさを感じた深作は、クランクイン当初から、いつも通り粘りに粘る演出を続けた。そのため、撮影が深夜に及ぶことが度々だった。じきに「深作組」は「深夜作業組」の略称ではないかというジョークが撮影所内に広まった。

 それでも、深作は嫌われなかった。岡田茂(東映社長)は、深作は俳優たちに愛されていたという。

〈どういうわけか、ひじょうに役者に人気があった。決して彼は優しくいいませんよ。相当役者ともやりあっているし(中略)。たとえば菅原文太はもともと松竹の出身で、うちに慣れないところもあってかわいそうだったし、誰もあいつの力をなかなか見抜かんのだよ。深作は落ちこぼれのような文太の力を見抜いたんでしょう。おそらく、共感するところがあったんだ〉(立松和平『映画主義者 深作欣二』)

 岡田は深作とは経営的な問題でなんどか口論した。撮影に時間をかけ過ぎて、予算を超過することが多々あったからだ。だが、出来上がったものを見ると、納得してしまうという。

〈ひとことでいって、ほんとうにいい男です(中略)。しつこくねばって、撮影に時間がかかっていやになると思われても、最後にはみんなから誉められる監督だった〉(同)

確執

 一方で、文太が主演した「仁義なき戦い」「新仁義なき戦い」の各シリーズと、「県警対組織暴力」のすべてをプロデュースした日下部五朗は、深作監督への不満を募らせていた。

「僕は深作欣二と長いこと仕事しましたが、二度と付き合いたくない監督ですね」

 私は思わず耳を疑った。日下部は撮影の最中、深作に腹を立てることが度々だったと言う。それは、深作が初めて京都撮影所にやって来たときから始まっていた。

「一日中、この野郎が、と怒っていましたね。顔を見ると、嫌だという気はしないんだけど」

 日下部が腹を立てた主な理由は、深作が予算や日程を平気でオーバーさせ、なんど注意しても聞き入れなかったからだ。

「撮影所にセットを作るでしょう。深作はちょっとしたところが気に入らん言うて、全部、壊しちゃうんだから。それで、また建て直させるわけだ」

 当然ながら、セットを一から建て直すと、予算のみならず撮影時間もオーバーする。進行係が作成したスケジュールも大幅な変更を余儀なくされた。深作はまた、セット内の照明を逆の位置に変更するのも日常茶飯事だった。入念に準備していたのに、初めからやり直しである。

「深作は役者に『どうも違う。微妙に違う』と言うんですよ。『文ちゃん、微妙に違うよ』と。そんなこと言われても、役者はどうしていいか、分からんで」

 深作は、俳優の演技にOKを出したあとでも「少しだけ、微妙に違うんだ。もう一度やってみよう」とテストを重ねた。周囲が「何回もしつこいなぁ」とあきれても、納得するまで粘る。

 だが、これは俳優を傷つけないようにNGを出す、深作特有の思いやりだったのではないだろうか。俳優の演技を頭ごなしに叱らず、「いいんだけど、少し違うから、もう一度やり直そう」という表現で、場を和らげていたのではないか。

「代理戦争」と「頂上作戦」で助監督を務めた土橋亨も、深作は、とにかくテストに長い時間をかけたと話す。画面の細部に拘(こだわ)る深作流の演出方法だ。

「サクさんは最初に前を見ていないの。後ろの大部屋の俳優さんばかり見て、芝居を直す。そうしてだんだん、手前に来るわけ。画面の奥の方から芝居を固めていくから、何度もテストを繰り返すことになる」

 主役の文太のテストが最後になるのは、いつものことだったという。

 スタッフから報告を受けた日下部は「あいつが、またか」と苛ついた。心穏やかな日は、ほとんどなかったと振り返る。

「彼は惚れた女優に対しては『微妙』とは言いませんよ。自分の作品に抜擢した松坂(慶子)とか、荻野目(慶子)には言わない」

 日下部は、深作が脚本を直さずには済まないことも、気に入らなかった。「仁義なき戦い」の笠原の脚本は例外中の例外である。

「厄介というか、扱いにくい監督ではあった。結論が出たかと思うと、またディスカッションを始めて蒸し返すんだ。壊し屋だね」

 深作は徹夜好きで麻雀好き。毎晩のようにスタッフと飲み歩き、タフに映った。日下部が思い出すのは、ちょっとした時間があれば、撮影現場で眠っていた深作の姿だ。

「スタッフには迷惑のかけっぱなしだったが、役者には好かれておった。文ちゃんの才能を開花させたのは、深作欣二ですよ。彼が文ちゃんの持ち味を最大限、引っ張りだした」

 不満を語る一方で、日下部は自著の『健さんと文太 映画プロデューサーの仕事論』では、深作を褒めている。

〈品ということでいえば、深作はどんな荒くれ男を撮っても、品を保っているところがあった。それは彼の書く文字を見れば一目瞭然である。実に達筆で、きれいな字を書く〉

 あんなに美しい文字でラブレターを書かれたら、女性はころりと参るだろう、とまで語るのだが、埋められない溝ができていたのである。

定型のない監督

 撮影のスタートは変則的だったが、日が経つにつれ、現場は活気を帯びてきた。文太は深作の演出について「自由に泳がせてくれる」と語る。

〈その代わり、もっとないか、それだけか、とくたくたになるまで演技の可能性を求めてくる。「バカヤロー、それじゃだめだ」と怒鳴るだけで、どうしろとは言わない。(中略)深作組の現場に充満する高揚した空気は、独特のものだった〉(「日本経済新聞」2003年1月5日)

 映画の後半で見せ場がある。坂井(松方弘樹)は、山守組長(金子信雄)が組員のヒロポンを横流ししていた件に怒り、啖呵を切る。

「おやじさん、言うとってあげるが、あんたは初めから、わしらが担いどる神輿じゃないの。組がここまでなるのに、誰が血流しとるんや。神輿が勝手に歩けるいうんなら、歩いてみないや、のう!」

「仁義なき戦い」第1作の印象的な名台詞で、口真似したファンも多いだろう。

 老獪な山守は、広能(文太)を利用して坂井を消そうとする。

「昌三、わしに力貸して、坂井を殺(や)ってくれい、頼む!」

 広能は、泣き落としが得意技の山守にうんざりしつつも、親分子分の盃を交わしたからには逆らえない。不本意ながらも、坂井の襲撃を決意する。

 山守役の金子信雄はまさに怪演で、こんな親分のために命を賭けるのは無駄死にだと思うほどずる賢い。脚本の笠原は、金子の芝居を見て、頭を抱えたという。

 深作もまた、当初は金子の演技に「こういう親分って本当にいるのかな」と不安が付きまとっていたというが、単純な悪役ではなく、悪辣さと小心さ、変わり身の速さが入り混じった人物像を演じているのだと分かり、引きずり込まれていった。

 広能は山守の懇願を受けて、坂井の潜伏先を襲う。殺しは失敗して、坂井と車に乗り込んだとき「つくづく極道が嫌になっての……」などと弱音を吐く坂井を、諭すように話す。

「最後じゃけん、云うとったるがよ、狙われるもんより狙うもんの方が強いんじゃ……そがな考えしとったら、スキができるぞ……」

 広能と別れたあと、坂井は山守組組員に狙撃されて絶命した。強い怒りを覚えた広能は坂井の葬儀に乗り込み、祭壇に向けて銃を乱射する。激昂した山守が言う。

「広能ッ、おまえ、腹くくった上でやっとるんか!」

 ここで文太は、シリーズを代表する名台詞を吐く。

「山守さん、弾はまだ残っとるがよう……」

 ラストシーンを笠原は、こう書いている。

〈シン、と見送る一同の視線の中で、不敵に歩み去ってゆく広能。その、孤独な、殺意に満ちた顔に―エンド・マーク〉

 撮影が続く中、文太はあるニュースを耳にした。会社がシリーズ化を検討しているという。

「悪役の華を咲かせて死ね」

「仁義なき戦い」には、鶴田浩二、高倉健、若山富三郎ら東映を代表するスターは一人も出演していないが、会社の上層部が「これは話題作になる」と判断し、続編の製作が決定した。

 1作目の公開は1973年1月13日、正月映画第2弾と決まり、2作目の公開はゴールデンウイークあたりにしたい、という具体的な案も出た。

 現場の熱気は京都撮影所内に広まっていた。監督の深作欣二は、気を遣わなければいけない大物俳優がいないことで、マイペースを保ちノビノビと演出しているように映った。

 繁華街のロケでは、ほとんどがゲリラ的手法で撮影された。まず撮影所でアクションシーンのリハーサルをしたあと、現場へ行って、いきなり本番を撮る。小型の手持ちキャメラの撮影なので、通行人には、本物のヤクザが凶器を持って暴れ回っているとしか見えず、映画だとは気づかない。110番され、パトカーがやってきたこともあった。

 また、三上真一郎が演じた新開宇市が広島駅のホームで刺殺されるシーンは、実は京都駅のプラットホームで撮っている。本来なら駅の許可が必要だが、下りるわけがないので、無断撮影して、さっさと逃げた。ゲリラ撮影は一発勝負のため、撮る方も撮られる方も必死である。それがまた、映像に強いインパクトを与えている。

 深作は特に大部屋俳優の使い方が上手かった。台詞のない脇役にも、前に出て芝居するように指示する。文太は、深作が大部屋俳優一人一人の名前をちゃんと覚えていた、と語る。

〈それまでの任侠映画は主演とその脇を固める何人かさえいれば、あとはどうでもいいんですよ(中略)。深作さんは末端の役者に至るまで現場での仕事を見て、目をつけた連中を抜擢して、働く場を与えてやったっていうのかなあ。だからこそ彼らは非常に奮い立ったんです〉(前出『映画主義者 深作欣二』)

「仁義なき戦い」は、戦後混乱期の青春群像を描いているので、主演クラスの俳優だけでなく、脇役の誰もが主人公に成りうる。シーンによっては、主演クラスに殺される悪役の方が目立っていたりする。深作が悪役を演じる俳優たちに口癖のように言っていたのは「7、8秒のフィルムをやるから、悪役の華を咲かせて死ね」だった。

脇役たちの熱演

 文太は〈「仁義なき戦い」シリーズは、決して予算があるほうじゃなかった〉と振り返る。

〈私と深作さんが一緒にやった映画で、そんなにたくさんの予算なんかくれるわけない。当時撮っていた任侠映画の半分ぐらいの予算じゃないかと思います。私のギャラだって最初は二百万円ですから。しかし、この作品をきっかけに、それまで鬱々としていた若い、端役しかもらえなかった俳優たちが、地面からワーッと湧いて出て来た〉(同)

 大部屋俳優の中でも出色だったのは、川谷拓三である。深作は、京都撮影所で川谷を初めて見たとき、殺陣師の上野隆三に「あんな坊やみたいなの、この映画にはいらないよ」と話した。

 川谷は小柄で痩身。見ようによっては童顔である。だが、そこらに転がっている死体から始め、身体を張って斬られ役、殺され役を演じてきた「拓ぼん」は、どれほど過酷なアクションでも、果敢に挑んだ。撮影中、生傷は数えきれず、死に瀕したこともある。

「あのシリーズでは脇がまた良かった。あれだけの脇役たちが生き生きと躍動していた作品は、僕が助監督をやった中でも秀逸でした」

 助監督の土橋亨は「代理戦争」の撮影のとき、深作から川谷拓三を託されて、演技指導をした。本当は別の俳優が配役されていたのだが、深作は気に入らず、川谷を使いたがったのだという。

 土橋の指導もあってか、川谷は、広能組の小心な組員・西条勝治役で印象的な演技を見せた。台詞が多く、不始末の詫びで手首を切り落としたり、鉄砲玉になる渡瀬恒彦に自分の愛人(池玲子)をあてがうなど、見せ場がいくつもある。その結果、深作に引き立てられ、シリーズ中4本の作品に出演している。深作が会社の意向を無視して俳優を抜擢した、恰好の成功例である。

 深作自身は「京都の大部屋俳優の数が揃っていたのが良かった」と語っている。

〈拓三あたりはね、酒飲みゃ乱暴極まりない酔い方をする男だったけど、本当の役者になろうという熱意は人並み以上に強かった。映画をよく見ているし〉(杉作J太郎・植地毅編著『仁義なき戦い 浪漫アルバム』)

 深作は京都の俳優だけでなく、東京から室田日出男と八名信夫を連れて来た。川谷は深作作品の常連俳優たちに強い関心とライバル意識を持っていたという。のちに川谷は室田とともに、大部屋俳優が結集した「ピラニア軍団」を結成している。

 だが、脇役の中で最も強烈な個性を演じたのは、山守の親分こと、金子信雄だろう。映画のクレジットで金子は脇役扱いだが、準主役クラスの立ち位置で芝居をしている。

 山守が大勢の子分を従える組長とは思えない言動を繰り返し、自分はけっして手を汚さずに勢力を拡大していく様は、映画の嘘のようにも思える。けれど、笠原和夫が描いたのは美能幸三の手記に基づく親分の人物像で、誇張していたわけではない。

 例えば、手記の中にこんな実例がある。

 親分の山守のモデルである山村辰雄には涙腺を自由に操れるという特技があった。窮地に立つと、誰の前であろうと泣き崩れる。組員の前ではひときわ、涙が効果的だった。

〈幸三、助けてくれい。この通りじゃ〉(飯干晃一『仁義なき戦い 決戦篇』)

 いい齢をした親分の涙を見て子分は動揺し、泣き落としに負けてしまう。女房の邦香(映画では木村俊恵が演じた利香)も山村をサポートして、子分たちを説得する。

〈とにかくうちの言うたらね、人がええもんじゃけん、ようしてやっちゃ、いつも人に手を噛まれて、あとでメソメソ泣くんよ〉(飯干晃一『仁義なき戦い 死闘篇』)

 泣いたあと、山村はコンパクトを取り出し、赤い鼻の頭をパフで叩いて化粧直しをする。山村の無理をきくうちに美能はノイローゼになり、ヒロポンを打ち始めたという。

 また、山村のせいで服役し刑期を務め終えた美能に対して、100万円を渡すという約束だったのに、40万円に値切るという吝嗇(りんしょく)ぶりを見せる。さらには組の関係者から出入りの業者でスーツを作ろうと誘われ、美能が応じたところ、後日山村から罵倒された。

〈このクソ馬鹿たれが。わりゃあ、いったい誰がゼニを出すとおもとるんない。言うとったるがよ、お前らが着る背広いうたら、七、八千円も出しゃ、なんぼでもあらあ〉(前出『死闘篇』)

 金子が演じた山守は、山村辰雄という現実の親分の姿を投影した人物だったのである。

デイリー新潮編集部