ダチョウ倶楽部の上島竜兵さんが亡くなった。61歳だった。リーダーでツッコミ担当の肥後克広(59)、ダメ出し(説教)担当の寺門ジモン(59)、そして、ボケ担当の上島……リアクション芸やギャグ、それを繰り返し見せられることでなんだか面白くなってくる、他に類を見ないお笑いトリオだった。彼らを知るテレビマンに聞いた。

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 ダチョウ倶楽部がその名を知らしめたのは、やはり「ビートたけしのお笑いウルトラクイズ」(日本テレビ)だと、民放幹部は言う。

「コントグループとして注目された時期もありましたが、同期と見なされるとんねるずやダウンタウン、ウッチャンナンチャンらと比べると、どうしても地味でした。そんな彼らが注目されたのが、『お笑いウルトラクイズ』で見せたリアクション芸でした。大の大人が時間と大金をかけて全力でバカをやった番組で、決まって彼らは過酷な罰ゲームが待っているほうへと行き、『聞いてないよぉ』と言いつつ壮絶なリアクションを見せました」

 上島さん単独でも注目された。

「第7回(91年9月30日)の放送では、ドッキリが仕掛けられる『人間性クイズ』に上島さんが単独で登場。“チャンバラトリオ結城哲也はSMがお好き”というテーマで、大先輩の結城師匠から迫られていた上島さんが途中から逆襲して立場は逆転。仕掛け人だったはずの結城師匠が怯えた顔で、『お前、ホンマもんちゃうか?』の名言を引き出し、優勝しました」

 たけしの「スーパージョッキー」(日テレ)での“熱湯風呂”とともに、彼らのリアクション芸はここからスタートしたと言っていい。

ゴールデン冠番組

「当時、同じ太田プロ所属だったたけしさんからの引き合いもあったのでしょうが、『お笑いウルトラクイズ』や『スーパージョッキー』で頭角を現した彼らが、リアクションに収まらず、天下獲りの夢を見た一瞬がありました。93年10月にスタートした初のゴールデン冠番組『王道バラエティ つかみはOK!』(TBS)です」

 初回のラテ欄を見てみよう。

《[新]王道バラエティつかみはOK! ドリフに捧ぐ!!堺ア然大ウソ西遊記▽ダチョウ絶叫!!愛車大爆破》(93年10月13日)

「初回の視聴率は9・9%(ビデオリサーチ調べ、関東地区、世帯:以下同)、今の時代なら十分合格点と言えるでしょう。リーダー肥後さんの愛車ビュイックを破壊するなど、当時ならではのバラエティ番組でした。しかし、ウラ番組には逸見政孝さんの司会で大人気だった『クイズ世界はSHOW by ショーバイ!!』(日テレ)があり、この日は2時間スペシャルで対抗した結果、視聴率はなんと24・8%でした」

 そこで翌週にゲストで迎えたのがビートたけしだった。

志村けんとの出会い

「視聴率は10・3%と2桁に乗せることに成功。しかし、たけしさんから『半年後にはいい思い出(番組打ち切り)になるんだから』と言われていました。3回目には、『ザ・ベストテン』のパロディとして上島さんがドリカムの吉田美和さんのモノマネをしたんですが、これが大ヒンシュクを買って、抗議が殺到。結局、たけしさんの“予言”通り、番組は半年で打ち切られました」

 何でもありだった当時でも抗議殺到とは……。

「ぐだぐだで危ない放送でしたからね。もっとも、その責任はダチョウ倶楽部ではなく、TBSの桂邦彦さんがプロデューサーだったから、というのが業界での通説です。桂さんは『痛快なりゆき番組 風雲!たけし城』で知られていますが、他にはこれといってヒット番組はなく、たけしさんがメインの『笑ってポン!』ですら3カ月で打ち切りとなった、ある意味、伝説のプロデューサーですからね」

「たけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)でも散々ネタにされていたっけ。だが、ダチョウ倶楽部はめげなかったという。

「ちょうどその頃、上島さんは志村けんさんに声をかけられました。一緒に飲もうと誘われるのですが、怖じ気づいてなかなか行くことができず、最後には志村さんから『俺の酒が飲めねえのか!』と半ば脅される形となって、よやく同席。その数日後には『志村けんのバカ殿様』(フジテレビ)のオファーがあり、トリオでレギュラーになった。ここから主役を盛り立てるワキに徹するようになったようです」

緻密なおでんレシピ

 そして、彼らを語る上で欠かせないのが、マネージャーの存在だという。

「東京のお笑い芸能事務所としては老舗の太田プロは、アットホームなところが売りで、タレントとマネージャーは二人三脚、滅多に交代はありません。彼らを支え続けたのが重成静香マネージャーです」

 忘れられない思い出があるという。

「彼らの代表的なネタ、熱々のおでんを上島さんが顔で受け止め、『アチチチチチッ!』とやる“熱々おでん”を、生放送でお願いしたことがありました。重成さんは二つ返事でOKすると、私に1枚のメモを差し出しました。そこにはおでんのレシピが、細かく、ギッシリと書かれていました」

 メモは以下のような内容だった。

《カセットコンロ×1、プラスチック製お椀×2、割り箸×3、おでんの具セット×4袋、こんにゃく×1袋、おしぼり×6本》

「大根にはダシが十分しみこむように、といった具材ごとの煮込み時間、温度管理の方法、本番での順序など細かく記されていました。中でも肝心なのは、おでんの温度。確か48℃だったと思います。それよりヌルいと湯気が立たないので、視聴者には熱そうに見えない。迫力は無くなり、リアクションは嘘っぽくなる。逆に温度が高すぎると、火傷をしてテレビ局にも迷惑をかけるというのです。だから、『生放送での準備は私らがやりますので、触らないように!』ともありました。本番直前に不用意に鍋のフタを開けてしまい、湯気が飛んでしまったこともあったそうです。おかげで、生放送は大爆笑で終えることができました」

 あの“熱々おでん”も綿密な計算の上に成り立っていたのだ。

「考えてみれば、彼らのネタの多くが、当初はウケようがウケまいがやってみて、倦(う)まず弛(ゆ)まず、工夫を加えつつ演じ続けるうちに、まるで歌舞伎の様式美であるかのように笑いを取るようになった。マンネリの美学と言ってもいいでしょう。そのウラには、マネージャーの努力と気遣いがあったわけです」

デイリー新潮編集部