少年隊の錦織一清(57)が脚本・演出・出演の舞台「サラリーマンナイトフィーバー」が、2月4日から12日まで三越劇場(東京・日本橋)で上演される。舞台への意気込みを語ってもらった後は、1977年から40年以上を過ごしたジャニーズ事務所を退所した理由や今後の展望について聞いた。(前後編の後編/前編を読む)

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――錦織さんがジャニーズ事務所を退所したのは2020年12月31日。その後、何が変わったのだろうか?

錦織:ちょうど丸2年ですね。この間に実感したのは、これまで錦織一清という個人と付き合ってくれていた人と、ジャニーズ事務所のタレントとして付き合ってくれていた人、そのふたつがあったんだなということ。

――淡々と語るが、離れていった人は少なくないのでは?

錦織:よく事務所を辞めると、1年くらいは芸能界で干されるとか言うじゃないですか。コロナ禍で実際に飛んでしまった仕事もある中、退所するのが良いことなのか悩みました。ジャニーズ事務所と親しくしている人なら、辞めたやつには近づかないかもしれません。僕も周りから人がいなくなるんだろうと想像していました。しかし、結果は違いました。思っていた以上に多くの人が集まってくれた。彼らが仕事を持ってきてくれたりもする。ありがたいですよ。

――さらに退所後、自身の考え方にも変化があったという。

ジャニーさんのいないジャニーズ

錦織:「退所したんだから、これからは好きなことできるじゃん」ってよく言われました。でも、好きなことができる喜びよりも、やりたくないことをやらなくてもいいようになったことに幸せを感じます。例えば、僕が嫌いな人とは会わなくてもいいわけです。組織に属していると難しいですからね。「あんたのこと嫌いかもしれないけど、上手くやってね」なんてよくあるじゃないですか。そろそろ還暦が待っている人間としては、もういいんじゃないかなと。嫌いな人とは会わなくてもいいかな、なんてね。

――今のジャニーズ事務所をどう見ているか?

錦織:僕にとっては、ジャニー喜多川という人が亡くなったことがすごく大きなことでした。ジャニーさんが亡くなった後、「僕が今やっている仕事のスタイルを、ジャニーズ事務所に所属しながら続けさせていただくことはできますか?」と問うたときに、返ってきた答えは微妙なものでした。それが退所のきっかけのひとつでもあります。

――NOだった?

錦織:はい。実はジャニーさんが亡くなる前、電話で2時間くらい話したことがありました。電話だったのは僕が愛媛の松山にいたためで、僕からの着信があったことに気づいたジャニーさんがかけてきてくれたんです。退所の話はしませんでしたが、今後の活動について相談すると、すごく僕の立場になって考えてくれました。しかし、ジャニーさんがいないジャニーズ事務所では、なかなか難しかったんですね。

――そしてジャニー喜多川氏の“家族葬”で、退所の思いを強くしたという。

その船に自分の部屋があるのか

錦織:東京ドームで行われた盛大なものとは別に、ジャニーさんを送る会という身内だけの会があったんです。ジャニーさんのご遺体があって、火葬場にも行きました。その集まりのときに見ていると、それぞれ反応は様々でした。僕がジャニーズ事務所に入ったとき、1977年当時はものすごく小さい会社でした。それから比べるとかなり大きくなった。昔とは比べようもない大きな船になり、僕らはその乗組員です。その船にまだ自分の部屋があるのかなと思ったときに、どうやらもうなさそうだなと。

――自分の居場所はなくなると?

錦織:自分の居場所はないように思えてしまった。だから、滝沢(秀明)の後継が井ノ原(快彦)になろうが、興味はありません。それよりも僕が気になっているのはショー、誰が舞台を作るのかということだけです。ジャニーさんが作ってきたショーのクオリティはものすごく高い。それは僕にも作れない。それを今後、誰が作っていくのか。

――滝沢秀明氏は“滝沢歌舞伎”などの演出を務め、錦織さんの後継者とも言えたのではないか。なぜ辞めたのか?

「YOU作ってよ」

錦織:滝沢とは年齢が親子ぐらい離れていますからね。そのあたりを膝を詰めて話したことがないんですよ。だから退所の理由はわかりません。想像で言うわけにもいかないしね。

――錦織さんの新著「少年タイムカプセル」(新潮社・3月1日発売予定)には、ジャニー喜多川氏との二人でショーを作ってきたことが描かれている。

錦織:やっぱり僕たちはジャニーさんに育てられた。なかでも僕は、ジャニーさんとマンツーマンで付き合っていたようなものでした。ジャニーズ事務所には、僕が会ったこともないような人がいっぱいいる。だからジャニーさんというパイプがなくなってしまったとき、自分はどうするべきかと真剣に悩みました。

――ジャニー氏は錦織の舞台を認めていたのか?

錦織:ジャニーさんが舞台を作るときは、僕が補佐役のような感じで作ることが多かった。「PLAYZONE」の演出もジャニーさんから言われて始めたことだし、ブロードウェイミュージカル「SHE LOVES ME」のときも、ジャニーさんから「YOU、これ知ってる?」と聞かれ、「ああ、知ってます。前にロンドンに行ったとき観たよ」「ああそう、僕これ、わかんないんだよね。YOU作ってよ」と言われたのが東宝での最初の演出だったんです。だから僕を演出家にしたのはジャニーさんなんです。僕のことを一番認めてくれて、心底怒ってくれて、扱いもよくしてくれたのがジャニーさんだった。才能を素直に買ってくれたのがジャニーさんでした。

――少年隊の場合、退所前から長いことグループ活動はなかった。

SMAPは平成のドリフターズ

錦織:TOKIOとかはみんなでミーティングしてやっているけど、僕らは3人で話し合って決めたことはひとつもないんですよ。僕は一応、2人よりひとつだけ年上だから、メディアの上ではリーダーと謳われていた。しかし、少年隊のリーダーはジャニーさんだと思っていました。だからすべてジャニーさんの意向で、僕らもそれに文句も言わずにやってきた。

――歌うのを拒否したわけではない?

錦織:何にも言っていません。そもそもデビュー前に「グループで歌わせてくれ」と言ったこともありません。ジャニーさんから突然、「YOUたち、来週『ヒットスタジオ』出るから」と告げられて、「ハァ?」と言ったことから少年隊は始まった。そういうことが長かったから、本当は自分たちで何かを考えなければいけなかったのかもしれないけど、何も感じないでいたのが与太郎ぽかったのかな。

――少年隊の活動がないまま、ジャニーズ事務所に所属していたのはなぜか?

錦織:舞台の「PLAYZONE」が終わってからは、少年隊としての活動は少なくなったけど、その間も個人としての仕事がなかったわけじゃない。滝沢が帝国劇場の舞台に僕を呼んでくれたりとか。ジャニーさんが生きているうちに退所したほうが良かったのかなと思うこともあったけど、ジャニーさんにはそういう義理があったし、裏切れないという思いもあった。いずれにしても「前向きな退所」だと思っていて、それを事務所が認めてくれたことに感謝しています。

――後輩であるSMAPをどう見ていたのか?

錦織:SMAPってデビュー曲を出したときから、飛ぶように火がついた子たちではない。これはマネージャーの飯島(三智)さんの手腕だと思います。彼女は昔、僕らのデスクをやってくれた女性ですけど、その飯島さんがタレントをマネージングするようになったのがSMAPでした。彼女がマネージングするSMAPが売れていくのを見るのはうれしかったですよ。彼女はいろんなテレビ局に行って、メンバーを個別にして「笑っていいとも!」みたいなバラエティやドラマに入れていった。僕らとはまったく被るところのないグループだったから、やっかみとかもない。彼らはジャニーズ事務所という鎧を着ていなかったのが新鮮だったし、コントもやるから平成のドリフターズみたいだなと思っていました。

――SMAP騒動の時はどんな空気だったのか?

錦織:僕、事務所に寄りつかない人間だったんですよ。赤坂のTBSに行くにも、事務所がある乃木坂方面は通らずに青山のほうをぐるっと回って行くほどだから(笑)。SMAPの振り付けをしている人と仲がいいので、彼を送っていく車の中で聞くと、「全然、大丈夫ですよ」なんて言っていた。蓋を開けたら、平気じゃなかったわけで……そのくらい知らないんですよ。

――最後に、意外だが錦織さんはまだ独身である。ご結婚は?

錦織:婚期を逃していますから、ここまで来るとね。友達にはバツ3だっているから。僕だってしたいときがなかったとは言いませんけど、そのときにはいろんな事情、結婚できない事情があってね。つかさんから「お前もちょろちょろしてないで所帯を持たんか」って言われたことがあるけど、その後に「ま、結婚して幸せになったやつは一人もいねえけどな」って(笑)。結婚するかしないかは、正直言って言えない。今考えていないだけで、したくなったら明日にでもするかもしれない。そういう生き方をしたいと思っています。

【舞台「サラリーマンナイトフィーバー」 前編を読む】

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錦織一清オフィシャルサイト
https://unclecinnamon.com/
舞台「サラリーマンナイトフィーバー」東京公演特設サイト
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デイリー新潮編集部