脳、内臓、歯……。人生100年時代、健康長寿のために私たちは“体のケア”に努めざるを得ない。だが、神業的な役割を果たし、呼吸、食事、会話と、日常生活を支えている重要な器官を蔑(ないがし)ろにしがちだ。知っておきたい新常識。「舌が命」の健康法。【菊谷 武/日本歯科大学教授】
***
長生きするには歯が命。
健康長寿を全うするために歯が極めて大事であるという啓発活動が長らく行われてきました。その代表は1989年に始まった「8020運動」です。
80歳になっても20本以上は自分の歯を保とう。当時の厚生省と日本歯科医師会が推進したこの運動は、現在、広く浸透しています。実際、運動が始まった当初の「8020」達成率はわずか6%だったのに対し、最新の調査では51.2%にも達しています。「歯抜けじじい」は、今は昔の話。大きな成果を上げたといえます。
しかし一方で、次のような現実が存在するのもまた事実です。かむことに困っているかを尋ねる国の調査で、「困っている」と答える人の割合は減っていない。そして、不幸にも誤嚥性肺炎や窒息事故で命を奪われるケースも後を絶ちません。
歯の健康は充分に保たれているのに、相変わらず咀嚼(そしゃく)に問題を抱えている人が数多くいる――。8020運動開始から三十余年が経った今、歯科医である私たちを含め、この現実をきちんと受け入れる時が来ているのだと思います。
歯と同等か、それ以上に重要な「舌」
もちろん、歯の健康は大切です。しかし、そのことばかりに目を向けてきたあまり、ややもすると歯さえ健康であれば口腔内の健康や咀嚼力は保たれると思い込んできてしまった節がある。しかし、大事なことを見落としているのではないでしょうか。命の根源である食を支える咀嚼、そして嚥下(えんげ)の大事な役割を担っているのは、「歯」だけでなくそれと同等、あるいはそれ以上に「舌」であるということを。
〈と、口腔内の健康に関して警鐘を鳴らすのは、日本歯科大学教授で口腔リハビリテーション多摩クリニック院長の菊谷武氏である。
たしかに、職場などでの「昼の歯みがき」を目にする光景が増えるなど、日本人の歯の健康に対する意識の向上ぶりを身近で実感している人は少なくないだろう。
それに比べると、舌への意識はなおざりと言わざるを得まい。歯みがきをしない人はいないが、舌みがきをしない人は多いし、舌の健康に注意を払っている人が果たしてどれだけいるだろうか。実は「舌が命」であるというのに――。〉
きんさん、ぎんさんの歯は…
長寿姉妹として親しまれた「きんさん、ぎんさん」。100歳を超えてもなお、明るく快活に過ごし、そして私たちを和(なご)ませてくれたふたりの姿は、多くの人が目指す百寿者のひとつのモデルだと思います。
では、亡くなる間際まで元気に、自立的に生活し、健康長寿を地で行っていたふたりの歯の本数はどうだったのでしょうか。
きんさん0本、ぎんさん3本。
地元の歯医者さんから入れ歯を勧められたものの、「困っていないから結構です」と断ったそうです。ここから学ぶべきことは多いと思います。なぜ歯が全く、あるいはほとんどないきんさん、ぎんさんは、よく食べ、よく喋り、そしてよく生きることができたのか。おそらく、活発に動く舌がふたりの健康を支えていたのでしょう。それほど、舌は極めて重要な役割を果たしているのです。
0.8秒の神業
・食べものを迎えに行って口の中に取り込む。
・味や温度などを感知する。
・食べものを口の中で巧みに動かして咀嚼を助ける。
・かみ終わった食べものを取りまとめて、のどに送り込んで飲み込む。
これら一連の動きの中心は舌なのです。歯がなくても、舌が食べものを口蓋(こうがい)(上あご)にこすりつけて潰したり、舌と歯ぐきでかみ砕いたりする。だからこそ、歯がなくてもきんさん、ぎんさんは元気だったと考えられます。
また、舌はとても鋭敏な感覚を持つ器官でもあります。ゴマ粒ひとつを選り分けられ、髪の毛が1本、口の中に入っただけでそれを感じ取る。
さらに嚥下について詳しく説明すると、実は私たちは、食べものを飲み込む瞬間に0.8秒だけ息を止めています。その間に気管を閉じて食道を開くという神業的な作業を行い、「呼吸」と「嚥下」を切り替えているのです。
人間だけが抱える、誤嚥や窒息のリスク
この0.8秒の切り替えにおいても、のどの奥まで伸びている舌が中心的な役割を果たしていて、舌が衰えると切り替えがうまくできずに嚥下障害を引き起こします。そして、誤嚥性肺炎や窒息事故につながってしまうのです。なお、わずか0.8秒の短い時間で気管を閉じて食道を開く切り替えを行っているのは、約6千種いる哺乳類の中で人類だけです。神業と引き換えに人間だけが誤嚥や窒息というリスクを背負っているのです。
話す時に舌が大事な役割を担っているであろうことは何となく分かっていても、これまで見てきたように、かんで、それを飲み込む際にも舌が歯以上に重要な働きをしていることを、多くの人は自覚できていないのではないでしょうか。ぜひ、きんさん、ぎんさんの例を胸に刻んでいただければ幸いです。
ここまでの話で、私たちの健康長寿に舌はとても大きく貢献しており、その健康を保つことがいかに重要であるかお分かりいただけたと思います。
なぜ舌は衰える?
舌の健康を維持するためには、まずは舌をはじめとする「口の老い」を意識することが肝心です。では、その老いはどうすれば自覚できるのでしょうか。次の八つの現象が増えたら要注意です。
・食べこぼす。
・むせたり、誤嚥したりする。
・誤って舌や頬をかんでしまう。
・ほうれい線が濃くなる。
・のどぼとけが下がる。
・食後などに、口に水をふくんでうがいした時、吐き出した水に食べかすが多く残っている。
・一緒に食事をしている人に比べて食べるスピードが遅い。
・話が聞き取りにくいと言われるようになった。
これらはいずれも、舌や口周りの筋肉が衰えたことなどによって生じる現象なのです。
それではなぜ、舌は衰えるのか。忘れがちですが舌も筋肉ですから、他の筋肉同様、加齢に伴い自然と衰えていきます。しかし、他の筋肉と違うのは、衰え方がやや緩やかである点です。握力や脚力と比べると、舌圧(舌のパワー)は衰える速度が遅い。おそらく、つかむ、歩くといった行為よりも、食べるという口の機能のほうが、最終的に生命を維持する上で重要だからではないかと思われます。
舌トレーニング法
しかし、最後まで衰えが緩やかな舌にも限界があり、75歳を過ぎたあたりから衰え方が速まります。こうした傾向を踏まえた上で、やはり、とりわけ高齢者は舌を鍛える必要があります。
先ほど記したように舌が筋肉である以上、とにかく口を動かすことが舌の衰え防止につながります。例えば次のような習慣を「舌トレーニング」としてお勧めします。
・ガムをかむ。
・おしゃべりを楽しむ。
・カラオケを歌う。
・上下の歯全体を舌でなめ回すようにして行う「舌ぐるぐる体操」。
また、くれぐれも無理のない範囲で「食べにくいもの」を食べてみることも有効です。具体的には、よくかまなければならない少し硬めのものを食べるようにする。
この“食事トレーニング”に関して言うと、もちろん、すでに軟らかい食材しか食べられない状態の人などは誤嚥や窒息のリスクがあるため避けたほうがよいでしょう。
一方、まだ硬いものを食べられるのに、「楽」をして軟らかいものばかり食べていては舌は衰えるばかりです。肉類や、ごぼうのような硬めの野菜を食べることで舌の力は鍛えられるでしょうし、また白いご飯よりもパラパラのチャーハンのほうが、口の中でまとめにくいのでより活発に舌が動きます。同様の理由から、バリエーションに富んだ食感が混在するチョップドサラダのような多品目サラダも舌の力強化には役立つでしょう。
注目されない事故
こうした舌トレを最も意識していただきたいのが、お正月の時期です。
交通事故による年間死亡者数は、実に3536件にも上ります(2021年「人口動態統計」厚生労働省)。無辜の命が突如奪われる痛ましい交通事故は大きく報じられるケースも少なくありません。しかし、その約2.3倍もの死者が出ていながら、注目されていない事故があります。
窒息事故。
日頃の健康努力を無にしてしまうこの事故は、すでに紹介した通り、神業を持つ人間ならではのものです。そして、窒息事故のリスクが最大に達するのがお正月です。一年で最も餅を食べる機会が増える時期だからです。
毎年三が日が明けた1月4日に、「東京消防庁によると、餅をのどに詰まらせて搬送された人数は……」などと報道されます。しかし、交通事故が年中注目されるのに、窒息事故はそれっきりで忘れられがちです。
餅による窒息事故のリスクを避けるには、餅を食べないことが一番いいわけですが、それを言ったら何も食べられなくなってしまいます。餅に限らず、肉だろうが野菜だろうが、あらゆる食品で窒息事故は起こり得るからです。
それに、餅は日本人のソウルフードのひとつです。食べるなとは言いにくい。嚥下の力が落ちた高齢者がうちのクリニックに来て、餅には気を付けましょうと言ったところ、「今度の正月は餅食べちゃダメなんですか?」と、家族ともども悲しがられたこともあります。ですから、ダメとは言いません。その代わりに、サイズを小さくするとか、お雑煮に入れるならコトコト煮て、よりかみちぎりやすくするとか、工夫をしてほしいのです。
覚えておきたい「背部叩打法」
また、嚥下に不安を抱えている高齢者などがいる家庭の人は、万が一に備えた対処法をぜひ覚えておいてほしいと思います。
背部叩打法(はいぶこうだほう)。
のどを詰まらせた人を前傾させるなどしてその頭を下げさせ、背中をガンガン叩き、とにかく吐き出させる。本当は口に手を突っ込んで詰まった餅をかき出せればいいのですが、高齢夫婦ふたりきりだったりすると難しい場合もあります。実際、「背部叩打法を教えておいてもらって助かりました」と言われた経験もありますので、もしもの時の対策として役に立つはずです。
そして何よりも、窒息事故のリスクを下げるためには舌の力が物を言います。従って、やはり普段から先ほど紹介したような舌トレを意識することが大切になってくるわけです。
歯が多いことがリスクに?
最後に改めて、人生100年時代における舌、そして歯、すなわち口の健康に関する「新常識」を確認しておきたいと思います。
冒頭で説明したように、「8020」は成功し、日本人の歯の健康は増進されました。もちろん、歯が多ければ、咀嚼や嚥下の力は大きく保たれます。しかし、まさに人生100年時代の今、歯が多く残っていることによる”不都合“も見えてきました。
現在、日本人の「寿命」と、自立的に生活できる「健康寿命」の間には10歳ほどの開きがあります。つまり最後の10年は、介護の世話になったり、入院するなどの生活を強いられるのです。実際、亡くなる直前まで元気な「ピンピンコロリ」で生を全うできる人は1割だけで、残りの9割は寝たきりなどの果てに命が尽きる「ネンネンコロリ」を迎えます。
現実的にはほとんどの人が自立的に生活できない晩年を過ごすことになるわけですが、寝たきりなどの状態で多くの歯が残っていることは必ずしも健康に寄与するとはいえません。なぜなら、介護施設等で自立的な生活をできない高齢者は、充分な歯みがきなどが難しい場合が多く、結果、その人の口腔内では歯周病菌が大量に増殖し、歯周病になるからです。私はこれを「歯周病パンデミック」と呼んでいます。
この状態になると、歯周病菌は毒素を出しますので、虫歯にとどまらず、血液中に侵入して心疾患や糖尿病、脳血管疾患、そして認知症リスクを高めることが指摘されています。
つまり、現実的にはピンピンコロリが難しいなか、高齢者が充分にケアできない歯を多く残していることは、残念ながら逆にさまざまな病気をもたらすリスクを抱えることにつながりかねないのです。
「歯の整理」
だったら、歯周病パンデミックに陥る直前に歯を抜けばいいのではないか、そうすれば、それまでの間は多くの歯で食などを楽しめるではないか――そう考える人もいるかもしれません。
たしかに、歯周病は文字通り歯があるからこそ発生する病気なので、歯がなければ歯周病の問題は解決します。高齢になって充分にケアできない歯は抜いてしまえばいい。
しかし、寝たきりになってから抜歯するのは至難の業です。抜歯は簡易な手術のようなものですから、歯医者に行けない状態になった高齢者の歯は、施設あるいは自宅に訪問して簡単に抜けるというものではありません。したがって、自立的な生活ができなくなる前、75歳くらいまでには残すことが困難になった歯は早めに抜いてしまう「歯の整理」が必要な時代を、私たちは迎えているのではないでしょうか。
そうしたことを考えても、歯がない分を補う舌の健康を、私たちはより意識しなければならないと思うのです。
「いつまでも 行けると思うな 歯医者さん」
歯と舌を総合的に捉えることこそが、人生100年時代の健康長寿法だと私は考えています。
ぜひ、舌の大切さを再認識していただければと思います。
菊谷 武(きくたにたけし)
日本歯科大学教授。1963年生まれ。日本歯科大学歯学部卒業。歯科医。現在、同大学教授兼同大附属病院口腔リハビリテーション多摩クリニック院長を務める。専門は摂食嚥下リハビリテーション、老年歯科学。『図解 介護のための口腔ケア』『あなたの老いは舌から始まる』等の著書がある。
「週刊新潮」2023年1月5・12日号 掲載