前編【「義母と妹は生姜焼き、僕はキャベツだけ。酒浸りの父は、ある日突然…」壮絶な10代を送った44歳男性の大きすぎた後遺症】からのつづき
高野良智さん(44歳・仮名=以下同)は、9歳のときに母を亡くし、以降、義母から虐待を受けて育った。その後、父は自ら命を絶ってしまう。「親の人生の巻き添えになって自分をダメにしたくなかった」という彼は、叔父の助けを得て、工業大学に進学。水商売の店でアルバイトをしながら卒業し、機械関係の企業に就職してようやく人生のスタート地点に立ったと実感したという。
***
社会人になってからも、良智さんはなかなか恋愛ができなかった。誰かを好きになることがよくわからなかったのだという。
「ときおり風俗に行っていました。中には疑似恋愛みたいになる子もいて、そのくらいの関係が自分にはちょうどいい気もしていたんです」
25歳のころだった。夜更けに繁華街をぶらぶらしていると声をかけられた。学生時代、アルバイトをしていた店で働いていた女性だった。彼が卒業する前に、彼女はいつしか店を辞めていた。懐かしさから、ふたりでそのまま飲みに行った。
「当時の思い出話とか、彼女自身のこととか、いろいろ話しましたね。彼女の本名が夏海だということも初めて知った。夏海は『あの頃の良智くん、学生とは思えないほど落ち着いていて頼りになったよ』と言ってくれました。僕は覚えてなかったけど、しつこい客がいたとき毅然と対応してくれたのがうれしかった、と。僕は僕で、生活がかかっていたから必死だったし、働く女性たちを見下す客には我慢できなかった。自分もそうだけど、夜の店で働かなくてはいけない人は、みんなそれなりに事情がある。客だからってエラそうにするなよといつも思っていました」
夏海さんにも目的があったと、彼は初めて聞いた。問題のある家庭で育った彼女は高校を中退、地元の悪い仲間とつるんで遊び暮らしていたが、あるとき補導された。迎えに来た祖母の涙を見て気持ちが変わったそうだ。
「それからまじめに勉強もして高卒認定試験に合格、さらに専門学校に行くためにお金をためようと水商売に入ったそうです。お金がたまったので店を辞め、今は資格を活かして仕事をしているんだとか。その日はたまたま職場の人たちと飲みに来て、みんな二次会に行くところを彼女は抜けて帰るところだったと」
さらに話を聞いてみると、夏海さんも親から虐待されていたという。あけすけに語る夏海さんが羨ましかった。彼は「僕もそうだった」と言えなかった。
「普通の家庭」を知らない2人
それからふたりはときどき会うようになった。夏海さんは名前通り、あっけらかんと明るいタイプで、良智さんを引っ張ったり背中を押したりしてくれた。
「職場の人間関係で悩んでいたときも、彼女は『あなたはあなたでいいのよ。人間関係なんて、ちょっと引いて見てればどうにかなるって』と励ましてくれた。険悪な関係に巻き込まれていただけだったから、そうか、当事者だと思わなければいいんだと気がついた。その後、僕はどちらにもつかずに中立でいることができた。彼女の話を聞くと、僕とたいして変わらない家庭で育っているのに、どうしてあんなに明るくいられるのか不思議でした。彼女と一緒にいると安心できた」
それが恋へと発展していった。もう彼女がいなければ生きていけない。彼はそう思いつめて結婚してほしいと言った。
「私、あなたが思うよりずっと世間からズレていると感じるの。あなたのことは好きだけど、結婚するならもっと普通の人としたほうがいい。彼女にそう言われると、ますます、いや、僕にはあなたが必要なんだと拝み倒すようにしてOKの返事をもらいました。そのとき、僕は気づいてなかったんです。彼女も僕も、『普通の家庭』を知らないことに」
ふたりとも結婚を祝ってくれる家族はほとんどいなかった。彼は久しぶりに叔父を訪ねようと思ったが連絡がつかなかった。勤務先に連絡すると、半年ほどまえに退職したと言われた。夏海さんは唯一の肉親だった祖母を亡くして、誰もいないという。
「僕は学生時代から親しくしてくれた男友だちと会社の同僚、彼女は勤めていた店の同僚や今の会社の同僚など、本当に親しい人だけを呼んで簡単な報告会をしました。全部で10数人。温かい雰囲気でした。後日談だけど、そのパーティが発端となって、1年後に僕の学生時代の友人と彼女の友人が結婚したんです」
これが幸せというものなのか
良智さんが27歳、夏海さんが29歳での結婚だった。夏海さんが引き取って育ててきた保護犬も一緒だった。2年後、長女が生まれた。子どもをもうけるのはとにかく怖かったと彼は言う。自分が大人になりきれていない感覚が強かったから、親としてやっていけるのか不安でたまらなかった。
「でも夏海は平然としていました。『自分が機能不全の家庭で育ったからこそ、自分の子には楽しい人生を教えてあげたい。愛さえあれば大丈夫』って。強いですよね、女性は」
彼女に引っ張られて、彼は父親になった。とはいえ、「父親らしさ」はわからない。ただ、小さな命が愛おしかった。それでいいのと夏海さんは言ってくれた。
「夏海は会社が許す限り育休をとって、ゆっくり仕事に戻りました。『子どもがかわいくて仕事に戻りたくないけど、このままだと超過干渉の母親になりそうで怖いから仕事に戻る』と言っていました。僕だって会社を辞めたいくらいでしたよ、子どもと一緒にいたかった。おもしろいなあと思ったのは、夏海が連れてきたワンコが娘をかわいがってくれたこと。ふたりは姉妹みたいに仲良しでした。誰よりもお互いをわかりあってる。それを見て、涙が出そうになることがありました。夏海には笑われたけど、これが幸せというものなのか、と。自分の固く閉じた心が溶けていく感じがしたんです」
現実の生活は忙しかったが、ふたりとも心の余裕をなくすことはなかった。ワンコも入れて家族4人、仲良く暮らしていた。
「男と女」ではなくなって…
娘が小学生になったころ、夏海さんが昇進した。これまで以上に忙しくなると知って、良智さんは時短で仕事ができないか職場に相談したという。彼もまた、部署の中心にいたのだが出世など望んでいなかった。子どもが学校に慣れるまで、なんとか家庭を守りたいと上司に直訴した。
「いい職場なんですよ。当時はリモートなんて誰もやっていなかったけど、考えたら僕の仕事はけっこう在宅でもできる。ちょうど親の介護のために離職する人がいると社内で問題になっていたこともあって、もっと個人の状態に見合った仕事の仕方があるのではないかと会社も模索していた時期だったのがラッキーでした。僕は時短と在宅ワークを認めてもらえた。娘が1年生になった4月は長期休暇ということでまるまる休みをもらいました。5月からは午前中のみ出社、その1年間はそういう働き方をさせてもらった。翌年は妻が少し仕事をセーブした時期もありました。そうやってとにかく娘から目を離さないように生活していました。自分たちが親にしてもらいたかったことをしてあげたいのもあったし」
家庭はいい、子どもはかわいい。良智さんは仕事も家事も育児も楽しくてたまらなかったという。その一方で、知らず知らずのうちに夏海さんとは「男と女」ではなくなっていった。夏海さんから不満を聞いたことはある。だが、「娘とワンコとの4人家族」という意識が強すぎて、彼は夏海さんを「性欲の対象」として見ることができなくなっていったのだ。自分で意識したわけではないのだが、気づいたらそうなっていた。妻に求められても対応できず、「ごめん」と言うしかなかった。そのうち妻も何も言わなくなっていたので、それでいいとさえ思っていた。
「3年くらい前から、妻の様子がどこかおかしいというのは気づいていました。コロナ禍でそうそう残業があるはずもないのに、急に帰宅が遅くなったりして。でも正面切って聞くことはできなかった。怖かったんです。彼女に去られたら僕は生きていけないから」
“外注”
だがそのまま放っておくこともできなかった。夏海さんのお店時代の親しい友人に連絡をとってみた。
「僕も何度か会ったことがあり、家に遊びに来たこともある優子さんに、相談があると言って時間を作ってもらって。夏海が浮気していると思うと言ったら、優子さんは『うん、聞いてる。でも浮気じゃないわよ』と言うんです。『彼女、レスで苦しんでいたわよ。さんざん苦しんだあげく、セックスだけ外注することを選んだって言ってた。あなたとの家庭は絶対に壊したくない』って。愕然としました。夏海がそれほど苦しんでいたなんて、僕はまったく思いが至っていなかったから」
どうしたらいいかわからなかった。そんな思いを受け止めてもらうために、彼はときどき優子さんに会った。彼女はスナックを経営していたので、そこに行けば会えるし話もできる。そうしているうちに優子さんを好きになっていった。夏海さんのように彼をぐいぐい引っ張って行くタイプではない。そっと寄り添ってくれる雰囲気をもっていた。
「ただ、彼女は『私はあくまでも夏海の友だち。あなたの友だちでもある。だから裏切れないの』と男女関係になることは拒絶されました。僕も性的なことはどうでもよかった。優子さんの店に行ったり、ときにはオープン前に食事をしたり。そんな関係だったけど、僕の気持ちは優子さんに走っていたのかもしれません」
妻を咎めると
昨年の夏だった。娘が友だちの家に泊まりに行った日があった。彼が仕事帰りに優子さんの店に行こうとして繁華街を歩いていると、妻が男と並んで歩いているのを通りの反対側から見つけた。思わず妻のあとをつけた。ふたりはホテル街へと入っていき、いちばん手前の入り口へと消えた。
優子さんの店へ行く気力も失せ、知らない店で強くもないのにしこたま飲んで酔った。深夜に帰ると、妻はすでに帰宅していた。
「酔っていたせいでしょうね、ホテルは楽しかったかと言ってしまったんです。妻は顔色ひとつ変えず、『優子と楽しんできたの?』と。ちょっと待て、オレは浮気なんかしてないぞと言ったら、妻が『私だってしてないわよ』って。ホテルに入るのを見たんだと言うと、『性欲を解消してきただけ』と平然と言う。『あなたの気持ちは優子にあるんでしょ』と責められて言葉が出なくなりました」
また人との距離感がわからなくなっている
性欲を解消してきただけ、というのは夏海さんの本音なのだろう。家庭を壊したくないから、性欲だけは外注しているというのも。一方で、良智さんは確かに心を優子さんに預けた面がある。
「あなたのほうが罪は重いと夏海は言うんです。いや、オレは深い関係にはなってないし、なるつもりもないと言い返しました。『私は肉体関係だけよ。気持ちはまったく移していない。家でどうしても食べられない一品があるから、それだけは外で食べる。そういうこと。でもあなたは食事そのものを外で食べればいいと思ってる』と言われました。喩えが違うような気もしたけど反論できなかった」
いいじゃない、そういうことでと夏海さんは言った。それからも、ときおり帰宅が遅くなるが、彼女は言い訳すらしなくなった。良智さんも、今もときどき優子さんの店に行っている。
「夏海との関係は特に変わっていません。この夏も家族で旅行したし、夏海自身も今まで通り僕に接してくれている。それが嘘だとは思えないんです。ただ、僕自身は割り切れないところがあって、気持ちがギクシャクしてしまう。また人との距離感がわからなくなっている。僕はこのままでいいとは思ってないんです。だけど、無理して妻とセックスをすれば解決するとも思えない」
無条件で幸せだと思ったころと比べると、心の中に暗雲が垂れ込めている。どうすればそれが晴れるのかもわからない。ふーっと、大きなため息をついて彼は黙り込んだ。
前編【「義母と妹は生姜焼き、僕はキャベツだけ。酒浸りの父は、ある日突然…」壮絶な10代を送った44歳男性の大きすぎた後遺症】からのつづき
亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。
デイリー新潮編集部