藤井聡太七冠(21)が永瀬拓矢王座(31)に挑む将棋の王座戦五番勝負(主催・日本経済新聞社)の第3局が9月27日、愛知県名古屋市の名古屋マリオットアソシアホテルで行われ、先手の藤井が81手で勝利した。これで藤井は対戦成績を2勝1敗とし、全八冠独占まであと1勝。日本将棋連盟会長で永世七冠の資格を持つ羽生善治九段(53)の記録(当時は全七冠)を凌駕する前人未到の八冠へ王手をかけた。【粟野仁雄/ジャーナリスト】

名誉王座に黄色信号

 対局後、藤井は「終盤は負けになってしまった。(第4局に向けて)まずは内容を良くできるようにしたい」といつものように反省の弁を述べた。永瀬は努めてショックを見せずに「(最終盤で)対応がうまくできなかった。引き続き精いっぱい頑張りたい」と淡々と話した。王座5連覇を目指す永瀬は、史上2人目となる名誉王座(他のタイトルでは永世称号)がかかっているが、カド番となってしまい黄色信号がともった。

 先手は藤井。飛車を進めた藤井が角道を開いたが、永瀬は歩で止めて「角変わり」を拒否したため、第1、2局と同様の展開にはならなかった。

 永瀬は「振り飛車」を示唆するような動きを見せながら、互いに「雁木」で応戦。永瀬は飛車を「7二」へ持ってきて、最終的に「袖飛車」の形になった。「袖飛車」とは明治時代から昭和初期に活躍した大阪の阪田三吉(1870〜1946)の考案と言われる戦法で、飛車を3筋(後手は7筋)へ移動させて攻撃する。飛車を横に振るには振るが、「居飛車」の範疇とみなされる。

激しい攻防

 午前中から駒がぶつかり合って戦闘が開始された。2人をも勝負どころでは多くの時間をつぎ込む中で、永瀬のほうが積極的に仕掛ける。永瀬は端歩を5段目まで進め、9筋からの藤井玉を狙う攻めの拠点を作った。

 32手までで昼食休憩。永瀬が鰻丼、藤井がカレーを食べ、午後には永瀬が細かい攻めを繰り出していくと、藤井も応戦し、盤上は激しさを増してゆく。夕食休憩前には中盤のねじり合い(優劣不明な形勢で双方の攻めや受けが続くこと)になっていった。

 ABEMAで解説していた村田顕弘六段(37)は「藤井さんの駒組はガチっとした感じですけど、永瀬さんのほうの駒組はちょっと軽い感じなので、何かのきっかけに一挙に危なくなる可能性がある」などと話した。

 しかし、永瀬が飛車と角、さらに2枚の香車で藤井陣を脅かしてゆくと、次第に差が開いてゆく。

まさかの「4一飛」打ちの守り

 永瀬のリードが広がり、勝利は間違いないと思われた場面、藤井は65手目に「2一飛」と打ち込み、「5一」にいた永瀬の玉に王手をかけた。

 直前までABEMAのAI(人工知能)の予想では、藤井の勝率はわずか2%だった。「3二」には永瀬の守り駒の金がいる。この筋には永瀬の歩がなく、禁じ手の「二歩」にもならない。AIの予想手の第1候補は「3一歩」。筆者もこの手で間違いないと思った。これは自陣の金の下に歩を打つ「底歩」という手で、飛車の横効きに対する「守りの常道」である。

 ところが、永瀬は「4一飛」と飛車で合わせてしまった。この手では飛車で交換に来られてまた何をされるかわからない大きなリスクを残してしまう。ましてや永瀬の玉は、自分の銀で逃げ道をふさいでしまう「壁銀」の状態になっていた。

 ABEMAで解説していた深浦康市九段(51)と村田六段は「えっ。あれっ、えっ、どうして、えっ」ともはや言葉を失った様子。落ち着くと深浦九段は「ひっくり返されましたね。(藤井の)『5六』の角もよく効いているし」と話した。とはいえ、2人とも驚きのあまり解説のしようがないという感じだった。

 土壇場での永瀬の「失着」で、あっという間にABEMAの勝率予想が逆転した。風前の灯火だった藤井が、一挙に攻勢に出る。そして81手目、「3三」の桂の前に歩を打たれた永瀬は、あまり時間をおかず投了した。

永瀬自身の分析は?

 今回の永瀬の失着は、プロはもちろん素人が見てもわかる。ファンから「軍曹」と呼ばれる生真面目な永瀬らしからぬ一手だった。「1分将棋」の秒読みに追われていたとはいえ、全く慌てる場面ではなかったはず。いわゆる「魔が差す」とはこのことか。

 何が影響したのか、もちろんさっぱりわからない。これまで勝負所での午後のおやつは、藤井は飲み物だけで、相手はスイーツを注文することが多かった。それが今回、永瀬は飲み物のみで、藤井はケーキも注文した。藤井のケーキが思わぬ「僥倖」(藤井が中学生時代に使った言葉)をもたらしたのか……などとつまらぬことまで考えてしまう。

 思わぬ他力本願で土壇場の大逆転が転がり込んだ藤井は、間違っても「失着でびっくりした」などとは言わない。しかし、仲の良い研究仲間による考えられないほどの歴史的な失着に、内心では相当に驚き、混乱もしただろう。もちろん持ち時間を使い切っての「1分将棋」は、タイトル戦だけにあるわけではない。永瀬はいくらも経験してきたはず。それでもやはり、秒読み将棋は怖いことを改めてこの一局で痛感した。

 永瀬は「『3一歩』が第一感でしたが、エアポケットに入ってしまった。対応がうまくできなかったと思います」などと振り返り、局後も冷静に報道対応や大盤解説場でファンに挨拶していたが、その内心はいかがだったのか。エアポケットとはいったい何だったのか。いつか訊いてみたい。

 第4局は10月11日に京都府京都市の「ウェスティン都ホテル京都」で行われる。先手番となる永瀬が今回のショックを克服して巻き返せるか。とはいえ、今回の思わぬ流れから言っても、藤井の前人未到の八冠がかなり高くなってきたことは間違いない。さらに藤井は、早くも10月6日に東京で、小学生時代からのライバル伊藤匠七段(20)の挑戦を受ける竜王戦七番勝負(主催:読売新聞社)の第1局が始まる。

粟野仁雄(あわの・まさお)
ジャーナリスト。1956年、兵庫県生まれ。大阪大学文学部を卒業。2001年まで共同通信記者。著書に「サハリンに残されて」(三一書房)、「警察の犯罪――鹿児島県警・志布志事件」(ワック)、「検察に、殺される」(ベスト新書)、「ルポ 原発難民」(潮出版社)、「アスベスト禍」(集英社新書)など。

デイリー新潮編集部