本当は今頃、ヨーロッパにいるはずだった。世界でも評判の脱出ゲームのために、ギリシャを訪れる予定だったのだ。

 ヨーロッパで新型コロナウイルスによる肺炎で初の死者が出たのは2月15日。しかし2月下旬までは、それほどの危機感もなかった。むしろ心配だったのはアジアからの訪問者が隔離される危険性だ。実際、3月5日にハンガリーで咳をしていた日本人15人が病院に隔離されるという事件も。

 それからの1カ月は映画のようだった。それは、漠然と人々が夢想していた「理想のヨーロッパ」が瓦解する期間でもあった。

 欧州はよく「高福祉高負担」の福祉国家として紹介される。実際、税金が高い代わりに保育園が充実していたり、大学や病院がほとんど無料という国も多い。

 しかしそれは医療水準の高さを意味しなかった。イタリアは国民負担率の高い国の一つであるが、新型コロナに対しては実質的な医療崩壊が発生し、多くの死者が発生してしまった。フランスやスペインも危機的な状況である。

 21世紀の欧州各国では福祉国家の「縮小」が進んできた。それが今回の医療崩壊の遠因ではないかという指摘もあるが、少なくともヨーロッパを「理想の福祉国家」と考えることはできなくなってしまった。何せ危機の時、国民の命さえも救えないのだから。

 ヨーロッパには、人権意識の進んだ国々というイメージもあった。

 しかし有事の際には、国家の強権がいとも容易(たやす)く発動できるようだ。フランスやイタリアでは外出禁止令が出され、警察当局が違反者を取り締まっている。ポーランドでは自宅隔離対象者向けのアプリも登場した。海外から帰国するなどした人は、在宅を証明する写真を当局に報告する必要があるのだという。

 1月に武漢が封鎖された時、日本のメディアは「中国だからこんなことができる。民主主義国家には無理」という反応だった。しかし日本が民主主義のお手本とした欧州が、中国と同じように個人の人権を大幅に制限している。

 日本の専門家会議の発表によれば、新型コロナに感染しやすいのは「換気の悪い密閉空間」「人が密集」「近距離で会話」という3条件が揃った時。疫学的に外出禁止はやり過ぎのように思える。どちらにせよ、ヨーロッパの国々はやる気になれば、それくらいの強権はすぐに発動できてしまうのだ。

 日本では、人口当たりの病床数やCT数が非常に多く、概して現場の医療従事者は優秀なことが改めて確認された。戒厳令がなくても、ただの「お願い」に過ぎない自粛要請にも多くの人々が従っていた。

 単純な「日本すごい」という話ではない。裏を返せば平時から高い社会保障費が発生しており、同調圧力の強い社会ということでもある。いずれにせよ、完璧な理想郷なんて、世界中のどこにもなさそうだ。

 当面の間、脱出ゲームどころか、日本からの脱出も叶いそうにない。

古市憲寿(ふるいち・のりとし)
1985(昭和60)年東京都生まれ。社会学者。慶應義塾大学SFC研究所上席所員。日本学術振興会「育志賞」受賞。若者の生態を的確に描出し、クールに擁護した『絶望の国の幸福な若者たち』で注目される。著書に『だから日本はズレている』『保育園義務教育化』など。

「週刊新潮」2020年4月9日号 掲載