令和元年6月1日に起きた元農水省事務次官長男殺害事件。70歳を過ぎた元エリートの熊沢英昭被告が、40代のひきこもりの息子を殺害するという衝撃的な事件から1年あまりが経過した。ライターの磯部涼が、加害者をよく知る政治家の証言などをもとに、熊沢家の歪んだ家族関係に迫る。連載第3回。

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「川崎殺傷事件、動機不明のまま捜査終結」。令和元年9月2日、報道機関各社が一斉にそう伝えた。神奈川県警は事件発生から約3カ月間で述べ2100人の捜査員を投入。容疑者=岩崎隆一が20年間引きこもっていたと見られる川崎市麻生区多摩美の部屋を2度に亘って家宅捜索した他、親族を含む390人もの関係者に事情聴取したが、その上で犯行動機を不明と結論付けざるを得ず、既にこの世にいない男を書類送検することでもって捜査に幕をおろしたのだ。

 事件の標的とされたカリタス小学校の運営母体〈学校法人カリタス学園〉の高松広明事務局長は、県警の発表にあたって校門前で取材に応じ、隆一については「コメントはない」が、事件については「動機の解明がなかった。『何で』というのが分からないまま終わるのは残念だ」と語った(*1)。

 捜査終結の発表に伴い新たな情報として報道されたのは、隆一がこれまでに明らかになっていた事件の4日前=令和元年5月24日以外にも、5月22日、事件現場に加えてカリタス小学校周辺を歩く姿が防犯カメラの記録から確認できたことで、入念な計画性がさらに裏付けられた。しかしそこまでだ。川崎殺傷事件は正式に迷宮入り事件となった。

 一方で、同事件に影響を受けたもうひとつの殺人事件の捜査が続いていた。凶悪事件は往々にして発生から間もないうちに模倣犯を生むが、その殺人事件が特殊なのは、「川崎殺傷事件のようになることを恐れて」起こされたものだったということだ。あるいは多くの場合、模倣犯の背中を押すのは報道だが、その犯人は岩崎隆一に対して複数の著名人が投げつけた「一人で死ね」という言葉を自分なりに実行したように思える。

 令和元年6月1日の午後3時半頃、東京都練馬区早宮の熊澤邸から警察へ通報があり、76歳の熊澤英昭が自身の44歳の息子=熊澤英一郎を殺害したと告げた。警視庁練馬署員が駆けつけると、1階・和室の布団の上で血だらけの英一郎が仰向けに倒れていた。死因は首の右側を深く切られたことによる失血死。

 その他、首の他の場所や胸などにも十数箇所の傷があり、絶命した後も刺し続けられたと見られた。英昭が取り調べに対して語ったところによると、英一郎は「引きこもりがち」の状態だったという。また、彼は中学生の頃から家庭内暴力を振るい始めたとのことで、英昭の身体には英一郎に殴られた痕と思しき痣があった。

 そして犯行当日は熊澤邸に隣接する練馬区立早宮小学校で朝から運動会が行われていた。英一郎はその音に対して、「うるせえな、ぶっ殺すぞ」などと発言したという。英昭は「怒りの矛先が子供たちに向かってはいけない」と考え、台所の包丁を使って英一郎を殺害。その際、意識したのが、4日前に起こった川崎殺傷事件だった。

 英昭は「息子も他人に危害を加えるかもしれない。周囲に迷惑をかけたくなかった」と説明した。事件は容疑者=熊澤英昭が元・農林水産省事務次官だったこともあり、エリート一家の崩壊という下世話な切り口で連日大々的に報じられる。

*1 「朝日新聞 DIGITAL」令和元年9月2日付け記事(https://www.asahi.com/articles/ASM9243HNM92ULOB003.html )より

「行きどまりの家」

 家にはそこに住む家族の内情が表れるということを、早宮の熊澤邸の前に立って改めて思う。多摩美の岩崎邸は、周囲から取り残されたように古びており、実際、街の世代が入れ替わっていく中、家は内部にいわゆる8050問題を抱え込んでいた。一方、熊澤邸は如何にも“豪邸”であるかのように報道されたが、実際に足を運ぶと少し異なった印象を持つだろう。

 平成10年、英昭が審議官の時代に新築した延べ床面積115・72平方メートルの2階建ては、少し古びた箇所が目につくものの確かに立派なつくりで、丸みを帯びた洋館風の出窓が洒落た雰囲気を醸し出す。ただし周辺はいわゆる高級住宅地ではなく、家の裏側には畑が広がる。

 早宮はもともとひとつの地主一族が所有していた土地が徐々に分譲されていったようで、そのせいか住宅が建ち並ぶ区画はところどころ道が入り組んでいる。熊澤邸も車が1台通れる程度の道を25メートルほど進んだどん詰まりに位置し、さらにこの道は別の家が所有する私道のようで、かなり不便な立地だといえるだろう。何処かひっそりと、人目を避けるように建てられた雰囲気すらある。

 私道の所有者のひとりで、その道沿いに50年前から家を構えている男性は、かつて熊澤家が引っ越してくることは近所の噂になっていたと言う。

「お役人だし、いい給料をもらってるんでしょう。それなのにこんな行きどまりの家を買う人はいないよ、って話してたんだ」

 近隣の女性も当時を同じように振り返る。

「不動産屋に“今度、凄いのが来るよ!”と言われて、誰かと思ったら熊澤さんだった。この辺は庶民しかいませんから。本来、ああいう人が住むような所じゃないんです」

 私道のため車が停められないので、朝は少し離れたところで送迎のハイヤーが待っていたという。また、英昭が事務次官就任直後の平成13年にはBSE(牛海綿状脳症)――いわゆる狂牛病問題が起こり、責任者だった彼の家にも取材者が押し寄せた。近所では相当浮いた存在だったようだが、女性は悪い印象は持っていなかった。

「ご主人は腰の低い方で、会うと挨拶してくれますし、いつもゴミ出しをしていた。奥さんはちょっと“うつ”っぽい感じがあったけど、出かけるときはシャキッと……あのお役人が着る服、何ていうんでしたっけ? そうそう、ブレザーを着て、日傘を差してね」

 熊澤家には殺害された英一郎の9歳下の妹もいて、女性は熊澤夫婦の海外出張の際、留守番をしていた彼女の面倒をみたこともあったという。

「ピアノをやっていて、綺麗な子でしたけど、奥さんと同じで対人恐怖の気があったかな。まぁ、私には良いところのお嬢さんのことなんて分からないですよ。ましてや、息子さんなんて見たこともなかった」

 そして令和元年6月1日の午後、前述の男性が帰宅すると、家の前に規制線が張られており、彼は「自分の家に入れねぇってどういうことだよ」と憤った。前述の女性は「うちはいつも窓もドアも開けっ放しなんで、怒鳴り声なんかがしたら聞こえるはずだけど、事件にまったく気づかなかった」と首をかしげる。

 近所にあるカラオケ・スナックで昼間から酒を飲んでいた高齢者たちは、「あれは他所から来た家だから」とどこか他人事だ。「息子を殺すのはいいよ。でも自分も死ななきゃだめだよ!」。威勢のいいママが怒鳴ると客は流石に苦笑いする。横では男女が腰に手を回し合いべたべたしながら「二輪草」をデュエットしている。確かにこういう店には英昭は来ないだろう。やはり熊澤家はどこか土地とちぐはぐな印象を与える。

 逮捕後、英昭は東京拘置所へ移送され、妻も人目を忍ぶように早宮を離れた。しかし令和元年9月末、久しぶりに熊澤邸に足を運ぶと以前と少し違うところがあることに気付いた。閉め切られていた雨戸の一部が開いているではないか。カーテンの隙間からは暗い部屋が見える。

「帰ってきてるのよ!」。喫茶店で出くわした前述の女性はこちらの顔を見るなりに言った。他の近隣住民たちからは、どうやら妻は家を売りに出したらしいと教えてもらっていたのだが。

「この前、奥さんとばったり会ったのよ。それで聞いたら、売りに出そうと思ってたんだけど、外に出たことで里心がついちゃって『戻ろう』と決めたんだって。びっくりしちゃった。『終活、よろしくね』なんて言われたわ」

 夫が息子を惨殺した家で暮らし続けるというのはちょっと驚いてしまう感覚だ。あるいはそれが彼女なりの人生のやり直し方なのだろうか。英昭もまたここに帰ってくるのだろうか。それにしても一家は早宮に引っ越してきた時、どんな未来を想像していたのだろうか。

 町の理髪店の主人は当時のことを覚えている。

「英昭さんは無口なひとだったね。注文したら黙ってテレビをじっと見ているだけだった。でも最初の頃、『今度、息子を来させますから』と言ったことがあった。それでしばらくしたらやってきて、『熊澤です』と挨拶したのが英一郎さんでした」

 英一郎は無精で常に髪が伸び、英昭はその身なりを度々注意していたと見られる。成人の息子を床屋に向かわせるという行動からも、カーテンの隙間を覗くように熊澤家の実情を想像することができる。

エリート街道から「ドロップアウト」

 熊澤英昭は昭和18年、岐阜県可児市で生まれている。家族で上京したのは彼が10歳の頃のこと。歯学博士だった父は台東区で歯科医院を開設し、英昭は地元の都立上野高校を卒業後、東京大学法学部へ進学。ケンブリッジ大学への留学を経て、昭和42年、農林省(現・農林水産省)へ入省した。

 ちなみに弟は東京大学医学部附属病院に勤め、3人の妹はみな医療関係者と結婚している。また英昭が30歳の頃に入籍した妻の実家は埼玉県秩父市の資産家。やはり熊澤家は文句なしのエリート一家だ。昭和50年、そんな家の長男として英一郎は生まれた。英昭は英一郎が3歳になった頃に在米日本大使館1等書記官の役職に就き、家族はアメリカに移住する。

 3年後、農林水産省に戻ると英語の堪能さを生かして国際交渉の分野で実力を発揮。昭和62年には英一郎も父の血を受け継ぐように都内有数の進学校=駒場東邦中学校に進学するが、その頃から家族は軋み始めていった。

 熊澤家の内情を改めて探っていくと、前述した通り、英昭は取調べに対して英一郎が中学2年生の頃から家庭内暴力が始まったと話した。平成10年に早宮の新居に家族で移り住み、英昭は平成13年1月に中央省庁再編のタイミングで農林水産省の事務方のトップ=事務次官に就任。

 しかし同年9月、まずイギリスで大きな問題となったBSEに感染した牛が日本国内でも発見される。それに対して、当時の小泉純一郎内閣の農林水産大臣だった武部勤が「大した問題ではない」という趣旨の発言をし、野党やメディアから激しい批判を受ける。

 英昭も対応に追われた末、翌年事実上の更迭。以降はチェコ大使を務め、妻と3年間をチェコで過ごすなどして再度順調にキャリアを積んだものの、その裏で英一郎はエリート街道からドロップアウトし問題を拗らせていたのだ。

 令和元年5月25日、熊澤邸に英一郎から電話があり、彼は両親に「帰りたい」と告げる。英一郎は実家を出て、平成22年から6年間ほどは埼玉県さいたま市で、その後、3年間ほどは母が所有する東京都豊島区目白の住宅で暮らしていた。

 5月25日のうちに英一郎は帰宅するが、翌日からまた暴力の日々が再開した。「オレの人生は何なんだ!」と叫び殴りかかってくる英一郎に怯え、英昭と妻は2階で息を潜めるように暮らしたという。

 一方、英一郎は1階の和室に布団を敷いて、一日中、オンラインゲーム「ドラゴンクエストX」に耽り、その合間に、両親に対して暴言や暴行を繰り返した。並行してテレビや新聞では5月28日に起こった川崎殺傷事件の報道が続いていた。

 そして英一郎の帰宅から1週間目の6月1日。この日は土曜日で、前述した通り熊澤邸に隣接した早宮小学校では朝から運動会が行われていた。その喧騒に対して英一郎は「うるせえな、ぶっ殺すぞ」などと文句をつける。それは普段通りの口調ではあったが、英昭の脳裏を小学校の児童の列に包丁を持って突っ込んだ岩崎隆一の姿がよぎった。

 後に熊澤邸では英昭が書いた「殺すしかない」というメモが発見される。また彼は妻に「次に暴力をふるわれたら英一郎に危害を加える」と宣言していたように、肉体的にも精神的にも追い詰められていた。犯行当日にも暴行を受けており、運動会に対する文句が引き金となる。英昭は台所で刃渡り20センチの洋包丁を取り出すと、和室の布団でオンラインゲームに没頭していた英一郎の背中に向かっていった(*2)。

*2 令和元年12月に行われた裁判で熊澤英昭は、英一郎を殺害する際に不意を衝いたわけではないと主張するが、その点に関しては後の回で考察する。

「官僚の鑑」が漏らしていた悩み

「これはジャーナリスティックに書き立てる事件ではないと思います。哲学的な問題として向き合って欲しい」

 政治家の福島伸享はこちらを戒めるように言う。彼はここ数年、熊澤英昭とたびたび酒席を共にする仲だったという。

「この間、拘置所にいる熊澤さんに手紙を送ったんです。そこにも書いたのですが、熊澤さんが道義を守ったという誇りはみなが認めていることですから、どうかご自身を大切になさって下さいと」

 福島は通商産業省(現・経済産業省)の官僚を経て、平成21年の衆議院議員総選挙に民主党から立候補して初当選。民進党時代の平成29年には学校法人・森友学園を巡る質疑において、総理大臣・安倍晋三から「私や妻がこの国有地払い下げに関係していたということになれば、総理大臣も国会議員も辞める」という発言を引き出したことでも知られる。現在は無所属。拠点としている地元の茨城県から上京した際に、赤坂のホテルのラウンジで会うことが出来た。

「私は熊澤さんのことを、川崎の(岩崎隆一の)事件とは同じにされたくないという思いもあって、こうしてお話ししているんです。事件を知った時は『あの熊澤さんが?!』と驚きました。確かに熊澤さんがやられたことは法律に触れます。ただし、法律的な正しさと道義的な正しさは一致しない。ーーこれはあくまでも私の考えですよ。熊澤さんは息子さんを憎くて殺したわけではなく、やはりこれ以上ひと様に迷惑をかけてはいけないという思いがあって、愛しながらも殺した。当然罪のつらさを最も感じていらっしゃるのは熊澤さんです。今後、罪を償われるわけですが、私は法律に反したとしても、倫理上、もっと高い位置にあるものが存在すると思っているんです。だから今回の事件が熊澤さんの人間性ややられてきたお仕事に傷を付けたようなことは一切ない」

 福島は険しい表情で続ける。

「人間ってもともと不条理なものなんですから。その不条理さが殺人という事象として現われただけであって。自分は何者かだなんて、私だって分からない。あなただって分からないでしょう? それなのにメディアは『面会はいつ行くんですか?』『裁判はいつ始まるんですか?』みたいな質問ばかり。そういう世俗じみた観点から熊澤さんのことを論じて欲しくない。哲学や文学のテーマとして捉えて欲しいですし、社会問題に収まる話ではないと私は思います」

 福島は勤務する機関は別だったが、官僚時代から英昭の名前をよく知っていたという。

「霞が関の世界では、熊澤さんは有名でした。農林水産省のエースだということ。農業関係の国際交渉のエースだということ。その点で決まって名前が挙がるのが熊澤さんでしたので」

 直接接するようになったのは3、4年前。英昭が〈農林水産省退職者の会〉の会長に就任したことをきっかけに、政治家として農林水産省の労働組合にバックアップされていた福島と関わりが深くなった。

「〈退職者の会〉はいわゆる“キャリア”ではなくて“ノンキャリア”の会です。農林水産省のキャリアのトップでありながら、その会長への就任を依頼された事実からも広く尊敬されていたことが分かります。熊澤さんのすごさはいろいろな面があると思いますけど、とかく近年の官僚は時の政権に媚を売って出世をするようなひとが多くなった。熊澤さんはそういったことがいっさいないひとでした。だから、私は官僚の鑑のようなひとだと言うんです」

 英昭と福島が酒席を共にする際も、話題は決まって近年の省庁、官僚の在り方に及んだ。

「やはり特に安倍政権になって以降、官邸からのトップダウンで農政がおかしくなっているし、それに伴って政権もおかしくなっていますよねと憂いていたわけです。その視点は共有できていたと思います」

 英昭はプライベートについてほとんど口にしないタイプで、福島も彼が抱えていただろう家族についての悩みなど知る由もなかった。それが事件の前年、平成30年の忘年会で心情をわずかに口にしたことがあった。

「立派な方ですから立派なご家庭があるんだろうと思っていただけです。ただ私が『子供がゲームばっかりやって、勉強をしなくて大変なんですよ』という話をしたら、『子どもって思いどおりに育たないものですよね』とぼそっと言われた。もちろんその時は熊澤さんでもそう感じるのだなと思っただけですが、いま振り返ってみると、もしかしたらいろいろと悩んでいらっしゃったのではないかと」

 またもう一点、いまとなっては意味深く感じられるのが、英昭が“老い”について口にしていたことだという。

「『自分もだいぶ歳を取った』と何度もおっしゃっていました。僕らは『まだまだ熊澤さんのお力が必要です』と盛り立てていましたけど、“人生の総仕上げ”というか、年齢的に当然残りの人生について考えられていたはずで、〈退職者の会〉の会長を引き受けられたのもご自身が人生をかけてきた農水省を立て直したいお気持があったからでしょう。ご家庭にしても、いずれ自分がいなくなった時に息子さんがどうなるか悩まれていたんじゃないでしょうか」

 福島が英昭に最後に会ったのは平成31年2月のことだった。その数カ月後、英昭は自ら家族の歴史に終止符を打った。

“殺されて当然”なのか

 岩崎邸の近隣住民は、隆一が起こした事件について聞くと、ほとんどのひとが「何も知らない」「関係ない」と突き放した。一方、熊澤邸の近隣住民に英昭が起こした事件について聞くと、皆、半ば嬉々として語った。そこには、無差別殺人か家庭内殺人かという性格の違いが深刻さの違いとして表れているのだろう。

 また、後者の事件に関する口振り、書き振りからは、「仕方がないことだった」という同情や共感、さらには尊敬のニュアンスすら感じられることが多い。例えば福島伸享は英昭を「官僚の鑑」と、実妹は「兄は武士です」(*3)と言った。

 他にも元・大阪府知事/大阪市長の橋下徹は、川崎殺傷事件について「自殺しようと悩んでいる人をしっかり社会が支えていくのは当然のこと」とした上で、第1回で書いた通り「他人を犠牲にするなんて絶対あってはならない。死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべきだと思います」と語った(*4)が、熊澤英昭による家庭内殺人についてはTwitterで以下のように評している。

「他人様の子供を犠牲にすることは絶対にあってはならない。何の支援体制もないまま、僕が熊沢氏と同じ立場だったら、同じ選択をしたかもしれない。本当に熊沢氏の息子に他人様の子供を殺める危険性があったのであれば、刑に服するのは当然としても、僕は熊沢氏を責められない」(*5)

 英昭はまさに「死ぬのなら自分一人で死ねってことはしっかり教育すべき」親の立場から、それを実行に移したということなのか。順当に考えれば彼がやるべきだったのは、橋下も補足しているように外部へ助けを求めることだ。

 もちろん、暴力を振るわれる中で冷静な判断ができなくなっていたのかもしれない。しかし、それを第三者が「仕方がないことだった」と納得してしまってもいいのだろうか。あるいはそこでは被害者=熊澤英一郎と、川崎殺傷事件の容疑者=岩崎隆一とが重なってはいないだろうか。

 つまり、犯人が意図を説明することも罪を裁かれることもなく死んだ、川崎殺傷事件に対する行き場のない感情が、熊澤英昭の殺人によって発散されたのだ。

 英昭に同情や共感、尊敬の声が寄せられるのに対して、英一郎は被害者であるのにも拘わらず批判や揶揄の対象となっている。マスメディアでは直接的な言い回しは避けられるものの、両親の資産に頼りながら彼らに暴力を振るっていたことが繰り返し報道され、それが「熊沢(英昭)氏を責められない」という印象を強化する。

 英一郎はTwitterに“ドラクエ10ステラ神DQX(熊澤英一郎)”という、実父に殺害されるその瞬間まで没頭していたと見られるオンラインゲーム「ドラゴンクエストX」について主に書くアカウントを持ち、日々膨大な量の書き込みを行っていた。令和元年6月1日午後0時20分――つまり、事件の約3時間前に投稿された人生最後のツイートは「そうそう、マニアに人気のゲーム、ゼノサーガの主題歌にいい事が言われています。/誰も一人では生きられない」だ。

 その下には令和元年10月末時点で946個のリプライがぶら下がり、同情する意見もあるが、目立つのは「親のすねかじってたやつが言うと説得力あるなー」だとか「ご冥福お祈りしません。 殺されて当然だよ 親父さんに執行猶予つくこと希望します」だとか、英一郎を蔑む言葉である。

 しかし彼は本当に“殺されて当然”の人間だったのだろうか。いや、そもそも“殺されて当然”の人間などいるのだろうか。(第4回へつづく)

*3 「週刊文春」令和元年6月13日号より
*4 フジテレビ系「日曜報道THE PRIME」6月2日放送回での発言だが、「文藝春秋」令和元年8月号の記事「僕は元農水次官を責められない」においてまとめ直したものを引用。
*5 令和元年6月3日のツイート。ちなみに橋下は前述の記事「僕は元農水次官を責められない」において、「ただし熊沢氏が、自分と妻の身を守るために息子を殺したのだとすれば、話は違います。ましてや息子から暴力を受けていた恨みが動機なら厳しく批判しなければなりません。熊沢氏たちは息子から逃げるなどすればいいだけだったのですから。/僕が熊沢氏を責められないというのは、他人の子が殺されるのを防ぐためだったという一点に限られます。今後の取調べにおいては、この点を明らかにしていくことがポイントになるでしょう」とさらに補足している。

磯部涼(いそべ・りょう)
1978年、千葉県生まれ。90年代末より音楽ライターとして活動を開始。日本のヒップホップ・カルチャー、及びラップ・ミュージックに関するテキストを多数執筆。著書に『ルポ川崎』(サイゾー)、『ラップは何を映しているのか』(毎日新聞出版、17年)などがある。

2020年7月10日 掲載