安倍総理の置き土産

 辞任前の置き土産のように、安倍総理は新型コロナウイルスはさほど怖くないと認めたが、政府の方針への逆張り姿勢をあえて貫くのが、東京都の小池百合子知事だ。結果、たしかに都知事は輝き、栄えるが、代償として生け贄の数がかぎりなく膨らもうとしている。

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 8月28日午後5時からの会見で、辞意を表明した安倍総理だが、同じ場では新型コロナウイルス対策についても、新機軸が打ち出されていた。

「本日、夏から秋、そして冬の到来を見据えた、今後のコロナ対策を決定いたしました」と切り出した総理は、「この半年で多くのことがわかってきました。3密を徹底的に回避するといった予防策により、社会経済活動との両立は十分に可能であります」と続けた。

 そして、40代以下の致死率は0・1%を下回る一方で、亡くなった人の半数以上は80代以上なので、そうした重症化リスクが高い人に重点を置いた対策に、いまから転換する必要がある、という旨を述べた。

 本誌(「週刊新潮」)はかねて、致死率が低い新型コロナウイルスの感染防止策を徹底しすぎると、社会経済が回復不能な打撃を受ける。致死率が高い高齢者や基礎疾患がある人に絞ってケアし、社会経済は平時に戻すべきだ――と主張してきた。

 政府の本音も、実はそれに近かったと思われる。しかし、国民の間に新型コロナへの恐怖が深く根づくなかでは、「怖れすぎるな」というメッセージは「命の軽視」とも受け取られかねないため、政府も躊躇していたように見受けられる。

 それがようやく「転換」という語を用いて、コロナとの向き合い方を改める旨が表明されたのだ。

 それともう一つ、安倍総理はこうも述べた。「感染症法上、結核やSARS、MERSといった2類感染症以上の扱いをしてまいりました。これまでの知見を踏まえ、今後は政令改正を含め、運用を見直します」。

 新型コロナを、致死率がはるかに高い感染症と同等に扱うことの不合理は、本誌も繰り返し指摘してきた。感染対策はようやく正常化の途につくかもしれない。

東京都は相変わらず…

「これまでは厳重に対策するのが良心的だとされ、少しでも対策を緩めようとすると、テレビのワイドショーなどで“人命軽視だ”と批判されました。安倍総理が引き際に方向転換を打ち出したのはよかった。新型コロナはそれほど危険な病気ではないと、事実上初めて言ったわけですから」

 と評するのは、アゴラ研究所所長で経済学者の池田信夫氏である。

 むろん、それは安倍総理の独りよがりの判断ではない。政府の新型コロナウイルス感染症対策分科会は8月21日、「今回の感染拡大はピークに達したものと考えられる」と発表。24日の分科会後の会見でも、国立感染症研究所の脇田隆字所長が「基本的な感染対策が行われていれば、通常の生活で感染が拡大する状況ではない」と明言した。「転換」はあくまでも、蓄積された科学的知見を踏まえて打ち出されたわけだ。

 そんな中、日本から独立でもしたか、と錯覚させられるような表明をしたのが、首都たる東京都である。小池百合子知事は8月3日から31日まで、夜10時までの時短営業を飲食店などに求めていたが、8月27日の会見で小池知事は、あらためてこう訴えた。

「いまの段階で緩めることなく、引き続き23区内におきましては、お酒を提供するお店、そしてカラオケ店に、夜10時までの営業時間の短縮を要請します。要請期間につきましては、9月1日から15日までといたしまして、1事業者あたり一律15万円の協力金を支給いたします」

知見を無視している

 池田氏が言う。

「夜10時までの時短など無意味です。いま感染すると危ないとされているのは病院や高齢者施設で、それなのに外食産業に自粛を求めるのは愚策です。その結果、みな不安になって経済が落ち込むだけです」

 しかし、経済を落ち込ませて、小池知事になにか得でもあるのだろうか。

「世間の不安を煽り、火をつければ、怖くなって“国の対策は緩い”と感じる人たちが“小池さんはわれわれの味方だ”と思ってくれる。ワイドショーを見てコロナを実態以上に怖がっている情報弱者が、都民の半数を占めると思われ、そういう人がいま彼女の権力基盤を支えているのです」

 それでも科学的根拠にもとづくなら、小池知事の判断が尊重されてもいい。しかし、京都大学ウイルス・再生医科学研究所の宮沢孝幸准教授が説明する。

「今回の感染拡大は感染日ベースで7月21日ごろ、発症日ベースでは、7月28日ごろにピークアウトし、それからもう1カ月。少し気をつけていればいい状況です。いまから感染者が急に増える可能性は低いので、東京都が時短要請を、9月15日まで延長する必要はないと思います」

 そして、過去に得られた知見を話題にする。

「4月7日に発令された緊急事態宣言を、専門家会議のメンバーらは肯定していましたが、曲解だと思います。当時の感染は3月15日、16日から減速し、28日にはピークアウトしていた。つまり緊急事態宣言には意味がなく、宣言発令前の自粛で足りたのです。そのことからも、新型コロナの感染はピークを迎えたら下がるとわかっていて、今度の波も同じ経過をたどるのは、同じ人間に同じウイルスが感染するのだから、当たり前のことなのです」

緊急事態宣言の効果は

 現に専門家会議も5月末には、「緊急事態宣言の前には流行は収まりはじめていた」と認めていた。すると小池知事の判断は、得られた知見を無視したことになる。宮沢准教授は、

「緊急事態宣言などの効果をしっかり検証し、総括していないから、こういう判断になるのだと思う」

 と評するのだが。

 今回の感染拡大について本誌で「ピークは7月末にきます」と予測していた大阪大学核物理研究センター長、中野貴志教授の見解も紹介しよう。

 それは「K値」という、感染の拡大と収束のスピードを測るメーターを使った予測で、中国由来の第1波、欧米由来の第2波の収束後、6月下旬に東京発の第3波が到来。それが収まる前に第4波が生じたが、そのピークも7月末と見通していた。現実には小さな第5波も発生したが、ほぼ予測通りにピークを越えたというわけだ。中野教授は、

「現状の用心と対策で、第5波が収束していくという見方に変わりはありません。また緊急事態宣言について、データからは効果が見えなかった、という見方も変わってはいません」

 と言って、続ける。

「感染拡大率が自然減する傾向は、タイやインドネシア、マレーシアなどアジア諸国に特にみられます。韓国、台湾、中国でさらに減衰スピードが速いのは、対策の効果が大きいのだと思います。また、欧州でも程度は低いものの自然減の傾向はみられ、イタリアやフランスでも、ロックダウンの前に拡大率の鈍化が見えていました。一方、アメリカでは流行当初、自然減の傾向が見えませんでしたが、ヨーロッパから感染源が流入し続けたからではないでしょうか。日本でも第1波と第2波、第3波と第4波と続けて生じたときは、一見、指数関数的に上昇し続けているように見えてしまいます。感染源の流入が収束スピードを上回る場合や、波が連続する場合は見えにくくなりますが、国や地域によって程度の差はあるものの、自然減の傾向はユニバーサルです」

 そのうえで、東京都の慎重な姿勢には「理解」を示しながら、

「緊急事態宣言に伴う自粛、活動制限に、顕著な効果が見られなかったことを考えると、このたびの東京都の時短営業の延長要請に、収束スピードを上げるうえでどれくらいの効果があるかについては、懐疑的です」

 と語るのである。

都職員はどんどん左遷され…

 それでも小池知事は、非科学的な不安に駆られた人の声にしか耳を傾けないようだ。前都知事の舛添要一氏が言う。

「国がどういう方針を示そうと、東京では感染者がどんどん増えているというのなら、データを出し、根拠を示してから要請すべきです。ところが、データも情報もなければ、データをもとにした小池知事の政治家としての判断もない。結局、こういう感染症と戦うときは、科学や疫学にもとづかない政策が一番ダメですが、彼女はデータを集めず、分析もせず、人気を下げないために、パフォーマンスで都民に寄り添っているように見せているにすぎないと思います」

 都庁の職員たちは、そんな小池知事に、唯々諾々と従っているだけなのだろうか。「都政新報」の後藤貴智編集長によれば、

「都知事に進言できる空気感はコロナ前からまったくなく、それがコロナ禍の下でも続いているのは、間違いないと思う。就任1年目に都の職員にアンケートをとると、“築地の移転はもう決まったことだから、と職員が説明しても、全然聞き入れられなかった”という声が目立ちました。そのあたりは、ずっと変わっていないと思います」

 とのこと。その一方で、

「コロナに関しては、都は震源地で感染者も多いため、一にも二にも感染症対策で、それよりも経済を回すべきだ、という声は、都庁内からは聞こえてきません」

 と語るが、それも職員たちが小池知事に忖度した結果だとしたら――。

「コロナ対策を担当し、保健所を所管している福祉保健局の幹部職員が、どんどん異動させられていると耳にします。7月には局長が飛ばされました」

 と、東京都の元幹部職員で『築地と豊洲』の著書がある澤章氏が明かす。事実、7月13日付で、58歳の局長が交通局長に異動になっていた。もちろん、定期異動ではない。

「その人はコロナの流行当初から福祉保健局長でしたが、一本気な性格で、いろんな形で知事に正論を言って入れられず、知事の言うことを聞かないヤツというレッテルを貼られ、飛ばされてしまった。また福祉保健局にはドクター、つまり医師免許保持者が何人かいますが、特に感染初期、コロナのことがわからない知事が彼らにつらく当たり、何人かがメンタルをやられたとか。ドクターが2人ほど心を病んで休職し、やっと復職したものの、部長級ドクターが1人、8月末で退職したそうです」

 実は今春も、小池氏は知事選がらみで、自分の意に沿わない日程を組んだ職員を閑職に左遷していた。こうして、都庁内を恐怖政治で牛耳りでもしないかぎり、ことごとく国と方向を異にする対策ばかり打ち出すことなど、できはしまい。澤氏が続けるには、

「結局、小池知事はいろんな場面で自分が目立つことばかりする。芸能人を連れてきて、YouTubeでトークショーのようなものを発信するのも、職員がお膳立てしていますが、知事の自己満足でしかありません。しかし、職員は当たらず障らずでいるしか、生き延びる道がないのです」

 福祉保健局の管理職が匿名を条件に漏らした。

「先日、都議会自民党の幹部に、自粛延長をけなされました。専門家も“営業時間の短縮は意味がない”と言っているのに、知事の判断はおかしい。人材切り捨ても目に余ります。局のドクター、感染症危機管理担当部長が激務に耐えきれず退職したのも、残念でなりません。知事は国と張り合っているだけです」

「週刊新潮」2020年9月10日号 掲載