子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第19回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!

毒親のさびしさ

 前近代の文学や歴史に毒親多しといえども、シェイクスピアの『リア王』ほどあからさまな毒親はいないのではないでしょうか。

 ブリテン王であるリア王は、老いて、3人の娘に領土を分けることにした。その時、娘たちのうち誰が自分を一番大事に思っているかを問うて、表面だけの偽りの愛情を示した長女と次女には領土を分け、三女には何もやらず、フランス王と結婚させて国から追放してしまう。最も可愛がっていた三女が期待通りの返答をしなかったからです。

「俺はこの子を誰よりもかわゆがり、挙げて余生をその手に委ね、優しゅう世話して貰おうと思っていたのだ」(福田恆存訳『リア王』)

 と王は言い、その当てが外れたと見るや、

「この女から父親の情愛を取上げておかねばならぬ」

 と怒る。そして諫めたケント伯爵をも追放。こうして王は国を譲った長女と次女のもとで一月ずつ過ごすことになりますが、しだいにどちらの娘にもないがしろにされ、居場所をなくして荒野をさまようことに。フランス王妃となった三女は父を助けようと挙兵するものの、二人の姉夫婦との戦いに敗北。王と三女はとらわれて、ケント伯が助け出した時には、三女は息絶え、王は絶望のうちに死んでしまいます。二人の姉も仲間割れし、次女は長女に毒殺され、長女も死んでしまうのでした。

 と、そのあらすじを書いているだけで、毒々しくてつらいものがあります。

 親を大事にしてくれたら財産を分け、さもなければ財産も親の愛情も取り上げるというのですから、毒親につきものの「条件付きの愛」を地でいってます(今も子どもに財産を譲ったとたん、家を手放したとたんに、ないがしろにされるってありがちですよね……)。結果、上の子二人に裏切られ、可愛がっていた三女を追放したことを悔やむ……。

 リア王は子を差別してもいたわけで、そういう子らのきょうだい仲が悪いのも「毒親あるある」です。きょうだいを比較して、ひとりだけ叱ることで、

「親の要求に十分応えていないことを思い知らせようとする」(スーザン・フォワード、玉置悟訳『毒になる親』)

「こういう親の行動は、意識的であれ無意識的であれ、本来なら健康的で正常な兄弟間の競争心を醜い争いへと変えてしまい、兄弟間に嫌悪感や嫉妬心を生じさせてしまう」(同前)

 毒親は、子らを分断することで、自分のコントロール下に置こうとするわけです。

 そうまでして味方がほしい。

 毒親って、さびしいんですよ。

 言ってみれば『リア王』は、毒親育ちの三姉妹の悲劇です。

 王と三女だけでなく、気まぐれで激しい性格の父に差別され、三女と戦争する羽目になった長女や次女も被害者なんです。

 だから、財産だけもらって、さようなら、となる。

 毒親本ならここで終わるところを、『リア王』の凄いのは毒親自身のさびしさ悲しさを浮き彫りにしているところでしょう。

『リア王』を読むと、毒親育ちの子どもたちも可哀想なら、毒親自身も哀れだなぁと痛感させられます。

武士の家はきょうだい仲が悪いのがデフォルト

 にしても国民はいい迷惑です。

 天皇家や摂関家の親子関係が保元の乱を引き起こしたと慈円は指摘したものですが(※1)、『リア王』も似たようなもので、トップの家族関係から戦争が勃発するのは洋の東西を問わないんですね。

 戦国武将なんてリア王みたいのばっかりです。

 たとえば斎藤道三。大河ドラマ「麒麟がくる」では本木雅弘が演じて超絶カッコ良かったですが、この道三が、上の子である高政には冷たく、孫四郎、喜平次といった下の子ばかり褒めて可愛がっていた。家督はかろうじて高政に譲るものの、譲ったとたん裏切られ、可愛がっていた下の二人の子に加え、自身も殺されてしまう。

 ほぼリア王です。

 高政には出生の疑惑説……主君・土岐氏のお手つきだった母が道三に下げ渡されて生まれた……もあって、大河ドラマでは、高政自身がこの疑惑を利用して、尊貴な血筋を引くかのようにアピールしつつ、父殺しの汚名を避けていましたが、木下聡によると、こうした出生の疑惑説は江戸時代の創作で、事実ではないと言います(※2)。

 そうした創作が受け入れられたのは、世間に「実の親幻想」があるからでしょう(⇒連載第17、18回参照)。「親は子を愛するものだ」という思い込みと規範意識ゆえに、親が子を疎んじるとすれば、それは血が繋がらないからに違いない、と考える。こうした世間の思い込みに合わせ、グリム童話も初版では、白雪姫を虐待するのは実の母だったのが、二版以降は継母に変えられたりするわけです。

 たとえ実の子であろうとも、思い通りにならぬ子は使い捨てよろしく死に追い込んだり、同じ子ながら差別したりする親が実在することは、この連載で見てきた通りです。

 高政も、弟二人と比較して、父から差別されてきたという積年の恨みがあればこそ、父を殺すところまで行ったのでしょう。

 また、家族殺人が起きる家庭というのは、急激な成り上がりや零落を経験していると、エリオット・レイトンは指摘しています(『親を殺した子供たち』)。

 油売りから戦国武将になったと言われる斎藤家はメチャクチャ当てはまる。しかも暴力で物事を解決するという気風があるから、父殺し、弟殺しが起きるわけです。

 戦国時代にはほかにも、織田信長(1534〜1582)が同母弟の信行(信勝、?〜1558)を、伊達政宗(1567〜1636)も同母弟の小次郎(1568〜1590)を殺しています。

 共に母が弟のほうを可愛がっていたことが一因と言われています。

 木下氏によれば、

「応仁の乱から戦国期にかけての各地の大名家では、必ず一度は父子・兄弟・一族間での内紛を起こしている」(※2)

 江戸初期にも、徳川家光が同母弟(異説あり)の忠長を切腹させています。この忠長は母・江に最も愛されており、一時は家光をさしおいて家督を譲られそうになったのを、家光の乳母・春日局が家康に訴えて、家光の地位が確定したという伝説はあまりにも有名です。たいてい親が下の子を可愛がって家督を譲ろうとして、上の子とモメるというパターンです。

仲が悪いからこそ説かれた「三本の矢の教え」

 そんな中、毛利元就は「三本の矢」の教えを息子たちに説いたと言われます。一本の矢は簡単に折れても、三本の矢は容易に折れない。兄弟も3人で結束すれば、敵に討たれにくい、というのです。

 この教えは後世作られたものですが、元となったのは、1557年11月25日、元就が毛利隆元・吉川元春・小早川隆景といった、正妻腹の三子に説いた「三子教訓状」です。

 そこでは、三兄弟の不仲は滅亡につながるゆえ結束せよと説かれている。そこに添えられた隆元宛の書状には、

「毛利家を良かれと思う者は他国はもちろん、当国にも一人もいない」

「家中にさえ、人により時によっては、よく思わぬ者ばかりだ」(※3)

 とあり、戦国期の毛利家を取り巻く厳しい情勢が彷彿されます。

 そうした状況下、元就が三兄弟の結束を説いたのは、実は毛利三兄弟の仲が険悪になりがちだったからです。室山恭子によれば、

「幼い時に他家へ養子や人質に出され、お互い疎遠な環境で育ったこともあり、兄弟仲はしっくりしていなかった」(※4)

 だからこそ父・元就は、力を合わせて事に当たるべきだと三兄弟に説いた。

 武士の家はきょうだい仲が悪いのがデフォルトで、毛利三兄弟もその例に漏れなかった。それで、こうした教えを説いたわけです。

秀吉のきょうだい殺し

 成り上がりの代名詞ともなった太閤・豊臣秀吉もきょうだい殺しをしています。

 秀吉と同時代に生きた竹中半兵衛の子・竹中重門の『豊鑑』(1631年)によれば、秀吉は父母の名も定かに分からぬ貧民の生まれといいます。秀吉の母の結婚歴も「三度以上」(※5)あったため、秀吉には異父きょうだいがおり、ポルトガル人宣教師のフロイスによれば、秀吉の出世後、彼の「実の兄弟と自称」する若者が「二、三十名の身分の高い武士を従えて大坂の政庁に現われるという出来事があった」(※6)。

 その若者が秀吉のきょうだいであることは「多くの人がそれを確言していた」ものの、秀吉は母に対し、「かの人物を息子として知っているかどうか、(そして)息子として認めるかどうかと問い質した」ところ、「彼女はその男を息子として認知することを恥じたので」「苛酷にも彼の申し立てを否定し」「そのような者を生んだ覚えはないと言い渡した」(※6)。

 すると、「その言葉をまだ言い(終えるか)終えないうちに、件の若者は従者ともども捕縛され、関白の面前で斬首され、それらの首〈こうべ〉は棒に刺され、都への街道(筋)に曝された」(※6)。

 のみならず、この一件から3、4ヶ月後、尾張に自分の姉妹がいて、貧しい農民であると知った秀吉は、わざわざ彼女を「姉妹として認め(それ相応の)待遇をするからと言い、当人が望みもせぬのに彼女を都へ召喚するように命じた」(※6)。

 姉妹が何人かの身内の婦人たちに伴われて都に出向くと、秀吉は彼女らを入京するなり捕縛、「他の婦人たちもことごとく無惨にも斬首されてしまった」(※6)。

 フロイスは「彼は己れの血統が賤しいことを打ち消そうとし」(※6)たと分析しますが、顔を見たこともないタネ違いのきょうだいに、身内と称されるのがいやだったのかもしれません。渡邊大門によれば、

「秀吉が認める兄弟姉妹とは秀長ら三人だけ」(※7)

 つまり、秀吉の右腕となった秀長、秀吉の養子となって関白となった秀次の母・日秀、徳川家康に嫁がされた朝日姫の3人で〈系図〉、

「秀吉の知らぬところで育った者は、どうしても許容できない考えがあったと推測される。ましてや秀吉に身分的な保証を求めたとしたら、もっとも許しがたかった」(※7)

 といいます。

 プラス、母に対する当てつけもあったのではないか。

 現在、秀吉の父として知られているのは弥右衛門と筑阿弥という人物です。このうち弥右衛門が秀吉の実父とされ、筑阿弥のほうは母の再婚相手とされますが、彼は病に冒されており、小和田哲男は、

「生活がぎりぎりという状況では、なにか些細なことでも衝突の原因となり、秀吉はしょっちゅう継父筑阿弥に折檻される状態だったことが予想される」(※8)

 としています。

 そんなことから秀吉は父のみならず、そういう父と結婚した母に対しても恨みの気持ちがあったのではないか。一般的には秀吉は母思いと言われており、母の訃報を聞くと、「気絶してしまった」(“たえ入給ひてけり”)と伝えられるほどです(※9)。が、母への愛と憎しみは必ずしも矛盾するものではありません。タネ違いの若者を、母にわざわざ子であるか問うた上、即座に処刑してしまうというようなことは、秀吉の母への思いが愛憎相半ばするものであればこそ、でしょう。

 秀吉が兄弟姉妹と認める3人にしても、妹の朝日姫は44歳で夫と離縁させられ家康に輿入れさせられているし、姉・日秀は、子の秀次を妻子に至るまで処刑されています。

 秀次は叔父の秀吉に家督を譲られ関白になりますが、秀吉の側室となった浅井茶々(淀殿)が秀頼を生むと、謀叛の疑いによって切腹させられた。しかも秀次の首と妻子は「手厚く葬られることなく、そのまま三条河原に埋められ」、その埋葬場所は「畜生塚」と呼ばれた……(※7)。

 秀次は、秀吉の家督を継いで以来、“御行跡みだりがはしく、万〈よろづ〉あさはかにならせられ”(※10)とも伝えられますが、フロイスによれば「万人から愛される性格の持主」(※11)、「弱年ながら深く道理と分別をわきまえた人で、謙虚であり、短慮性急でなく、物事に慎重で思慮深かった」(※12)ともいい、いずれにしても、妻子に至るまでまともに埋葬もされぬとは尋常ではありません。

 我が子や孫たちを殺されたあげく、夫も連座して流罪になった、秀吉の姉・日秀は翌年、出家しています。

 極端な没落や成り上がりといった階級移動が時に家族殺人に至るほど大きなストレスとなることを思うと、継父に虐待的に扱われ、乞食生活までしていた(※5)秀吉の肉親たちが、のちに前代未聞な出世を遂げた秀吉によって人生を振り回されたのも、ゆえなしというわけではなさそうです。

 秀頼に天下を譲る前に死んだ秀吉ですが、もしもうんと長生きすれば、リア王よろしく、秀頼やその母・茶々にないがしろにされる晩年が待っていたかもしれません。

※1『愚管抄』巻第四
※2 木下聡『斎藤氏四代』(ミネルヴァ書房)
※3 “当家をよかれと存じ候者ハ、他国の事ハ申すあたはず、当国にも一人もあるまじく候”
“当家中にも、人ニより、時々により候て、さのミよくハ存じ候ハぬ者のミあるべく候”

 原文は岸田裕之『毛利元就』(ミネルヴァ書房)より引用。

※4 室山恭子「『三本の矢』の母――妙玖」(小和田哲男編著『戦国の女性たち』〈河出書房新社〉所収)
※5 服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)
※6『フロイス日本史』1  第二部八八章
※7 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)
※8 小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書)
※9『太閤記』巻第十三
※10『太閤記』巻第十七
※11『フロイス日本史』1 第二部一〇三章
※12『フロイス日本史』2 第三部四九章

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2021年1月1日 掲載