子供の人生を奪い、ダメにする「毒親」。近年、盛んに使われだした言葉だが、もちろん急に親が「毒化」したわけではない。古代から日本史をたどっていくと、実はあっちもこっちも「毒親」だらけ――『女系図でみる日本争乱史』で、日本の主な争乱がみ〜んな身内の争いだったと喝破した大塚ひかり氏による連載第20回。スケールのでっかい「毒親」と、それに負けない「毒子」も登場。日本史の見方が一変する?!

物語のファザーファッカー

 支配的というのは毒親の絶対条件ですが、支配の最たる形が暴力と「性虐待」です。

「毒親」ということばを普及させたスーザン・フォワードによると、「肉体的な暴力と性的な行為」は、「ほんの一回の出来事であっても、子供の心には計り知れないネガティブな影響を与えてしまうことがある」(※1)といい、子どもや女性への暴力防止専門職養成に長年携わる森田ゆりによれば、「親または保護者による性的虐待は、治療・防止がもっとも困難で、友人や知人からの性暴力とは異なった対応を必要とする」(※2)といいます。

 親や保護者による性虐待は、子どもにとって最も安全であるはずの家庭を、安らげない場所にしてしまう、卑劣で残酷な犯罪です。年端もいかない子の場合、行為の意味は理解できなくても、何やら後ろめたいことをしたという罪悪感を抱いてしまう。しかも逃げ場がありませんから、苦しいことこの上ないのです。

 そんな性虐待が、古典文学や歴史書にはちょいちょい見られます。

 平安中期の『源氏物語』では、主人公の源氏が、10歳の紫の上を拉致同然に引き取って理想の女にすべく教育し、14歳になると犯してしまう。その時、紫の上は、

「なんでこんなに嫌らしい気持ちのある人を、心底、頼もしい人と思っていたのだろう」

 と、情けない気持ちになっています(※3)。

 源氏のような若くて(当時22歳)イケメンの大貴族が相手でも、父のように慕ってきた相手に性的対象とされることは嫌なことなのだ、と、作者の紫式部は言っているのです。

 源氏は30代に入ると、死別した元恋人の夕顔や六条御息所の娘たちも養女にしていますが、夕顔の娘の玉鬘には、髪や手を触って添い寝するなどのセクハラを働き、六条御息所の娘の斎宮女御(秋好中宮)にも恋情を訴えています。

 夫婦の営みを知らない玉鬘は源氏との行為がセックスであると思い込んで深く悩み、すでに人妻……それも源氏の不義の子である冷泉帝の妻……だった斎宮女御は、源氏の恋情を“むつかし”(鬱陶しい)と嫌がっている。

『源氏物語』のセックスの多くがレイプだと言うと、昔は社会情勢も婚姻制度も違うのだからレイプと言うのは当たらないと言う人がいますが、理想の主人公ですらこんなセクハラじみたことを行うし、相手の女は嫌がるのだということを、紫式部ははっきり描いていることに注目です。

 千年以上昔でも、庇護してくれるはずの人間に性の対象とされることは娘にとって嫌なことであったのは今と同じだったのです。

 ただ、これによって源氏が断罪されるわけではありませんし、女君の周囲の人たちは、むしろ源氏のような好条件の男に愛されることは幸運であると、とくに紫の上のケースでは、受け止めています。玉鬘にしても、彼女と結婚した鬚黒大将は、源氏が最後の一線を越えなかったことを「めったにないことで感動的」(“あり難うあはれ”)と受け止めており、養父が美しい養女に手を出さないことは殊勝であるかの書きぶりです(※4)。

 養父や継父による性虐待は当時珍しいことではなかったのか、平安後期の『有明の別れ』にも、再婚相手の留守中に、継娘を脅して関係する大貴族が出てきます。可哀想にこの娘は、継父の子を妊娠・出産するだけでなく、継父の先妻腹の男、つまりは継兄にも犯されて妊娠・出産、しまいには出家してしまいます。

 平安文学では、養父や継父による養女・継娘への性虐待はしばしばあって、娘はいずれのケースでも嫌がっている設定ではあるものの、犯した男の罪が問われることはないことからして、こうした行為は娘を苦しめるということは分かってはいても、さしたる大罪とは見なされていなかったことが浮き彫りになります。あとで触れるように、親が子を犯すことは古代でも罪とされていましたが、継父や養父は実の親ではない分、大目に見られていたのかもしれません。

『吾妻鏡』に見える性虐待

 物語ではこんな感じですが、歴史書にも親による性虐待は報告されており、驚いたのが『吾妻鏡』建長二年六月二十四日条の記事です。

「鎌倉の佐介に居住していた者が急に自害を企てた。聞く者が競って集まってこの家を囲み、その死骸を見た。この人には婿がいて、日ごろ同じ所に住んでいたのが、ちょっと田舎に下向していた。その隙をうかがって、娘と男女の関係になろうと誘った。娘は周章狼狽し、父のことばに従わなかった。しかるに櫛を投げて相手が取れば、肉親も皆、他人に変わると言われていた。それで父はひそかに娘の居所に至り、屏風の上から櫛を投げ入れると、娘は心ならずもこれを取った。そのため父は娘を他人と見なし、思いを遂げようとしたところに、婿が田舎から帰着。現場に入って来たために、父親は恥じて自害に及んだ」

 で、ここからが衝撃なのですが、

「婿は仰天し、悲嘆の余りすぐさま妻を離別した。彼女が父の命に従わなかったため、このような珍事が起きたのだ、“不孝”の致すところで、このまま夫婦の契りを保つわけにはいかぬ、ということだった。のみならず、自身は出家を遂げて、修行して舅の菩提を弔ったという」

 責められるべきは父親なのに、婿は親に従わなかった妻(父親にとっては娘)を“不孝の致すところなり”と責めて、出家してしまうのです。

 このくだりをはじめて読んだ時、父による性虐待の罪よりも、父に抵抗した娘の“不孝”の罪のほうが重い、という感覚にショックを受けたものです。

 この父の行いが当時の武家社会では問題はなかったのかといえば、問題があればこそ、父は恥じて自害したわけです。

 古代の祭祀で唱えられた祝詞には、

“おのが母犯せる罪・おのが子犯せる罪・母と子と犯せる罪・子と母と犯せる罪”(六月の晦の大祓)

 とあって、自分の母や子を犯したり、自分がセックスした女の子どもを犯したり、また自分がセックスした女の母親を犯したりすることは罪とされていました。

『吾妻鏡』の伝える父親の行為は明らかに罪だったわけですが、このケースの場合、父が自害してしまったというのが大きい。

 というのも中世には「死骸敵対」ということばがあって、主として遺産相続争いの場などで、親の意志に背いた場合に使われます。

 もともとは死骸に霊力があるという古代以来の観念があったのが、中世になって現実世界の利害関係に利用された形ですが、勝俣鎮夫によると、「死にかたの問題と死骸の意志は深く結びつき、その意志をかなえてやるのが当事者の義務と信じられていた」(※5)といい、このケースでは、父が意志を遂げぬまま、無念の死を遂げたということが大きなポイントになっているのです。

 鎌倉武士の時代になって父権が強まったということもあったかもしれません。

 が、父には犯されそうになるわ死なれるわ、夫は失うわ、近所に知れ渡るわで、娘としては地獄です。その後、彼女がどのような人生を送ったかは、『吾妻鏡』は伝えていませんが、想像するだにつらいものがあります。

息子を性虐待する母親

 前近代の親による性虐待は、父から娘へ向かうものだけではありません。母が息子を性虐待する例もあって、それが平安初期の『日本霊異記』(822年ころ)中巻第四十一の説話であると私は考えます。

 ある女が前世で息子を愛するあまり口でその“まら”を吸っていた。3年後、彼女は危篤に陥ると、

「私は何度も生まれ変わり、常にこの子と夫婦になろう」(“我、生々の世に常に生れて相はむ”)

 と言って、ことば通り、隣家の娘に生まれ変わり、長じると自分の息子の妻になって、やがて夫(息子)と死に別れて泣いていた。

 その声を聞いた仏が、彼女の過去生を瞬時にさとって、この女の悪い因縁を嘆いたというんです。

 我が子を性虐待し、別人に生まれ変わってまで執着する女。彼女は何度どんな姿に生まれ変わっても同じように生まれ変わった息子に同じことをし続けたのではないでしょうか。

 いわゆる「虐待の連鎖」というようなものを、昔の人はとうに分かった上で、生々流転とか輪廻といった概念を構築したのだろうとか、輪廻から抜け出れないのも、そこに生の苦しみだけでなく快楽があるからなんだろうなぁなどなど、考えさせられることが多々あります。この話、以前、オンラインで連載していた「変態の日本史」でも紹介し、その時も同じことを感じてそう書いたんですが、毒親日本史的に言っても、物凄く刺さる説話なんですよね。

 今も、乳児期の息子のおちんちんを吸ったり舐めたりするお母さんがいると、内田春菊さんの漫画で読んだ記憶がありますが、乳児時代の息子のおちんちんを吸うのは大目に見る人も、男女が入れ替わって、乳児時代の娘の性器をお風呂に入れるついでに父親が舐めていたとしたら……ちょっとヤバいと思いませんか?

 そう考えると、息子を性虐待し続けていた『日本霊異記』の母の話も、やはり仏の言うように悪縁として嘆くに足ると思う次第です。

養女や継娘を犯す毒父たち

 さて秀吉といえば、長い日本史の中でも、彼ほど低い地位からのぼりつめた人はいないというほど前代未聞の階級移動を果たした人物として有名ですが、ポルトガル人宣教師フロイスによれば、

「重立った貴人たちの大勢の娘たちを養女として召し上げ、彼女らが十二歳になると己れの情婦としました」(※6)

 つまりは養女を犯していた、と言います。しかも、そうした秀吉の、

「色事の取持ち役を務めたのは徳運(施薬院全宗)と称する、すでに七十歳に近い老人で、当初は比叡山の仏僧であり、(現今)我らの大敵であります」

 と。

 フロイスはキリスト教を弾圧した秀吉にいい印象を抱いてはいなかった上、仏僧は「大敵」と言っているので、話を割り引いて受け止める必要はあるでしょう。

 が、秀吉は6本指だったという彼の指摘(※7)などかつては荒唐無稽とされていたものが、別の資料により事実と分かるなど(※8)、実際に秀吉に接した外国人の証言として重視されています。『フロイス日本史』には、秀吉がキリスト教会関係者に、海外に奴隷として連行された日本人を日本に連れ戻すよう計らってくれと訴え、そのための対価も支払うと言ったことも記されており(※7)、必ずしも悪いエピソードばかりを伝えていたわけではありません。フロイスの記事はかなり正確で、養女を情婦としたという指摘も、現実を反映していた可能性があります。

 正真正銘、養女(継娘)に手をつけた毒父としては、平安末期の白河院が挙げられます。彼は寵愛する白河殿の養女・藤原璋子と関係します。白河殿は女御の宣旨はないものの、祇園女御と呼ばれ、『平家物語』では清盛の母と伝えられています。そんな祇園女御の取り計らいで璋子も比類ない寵愛を受け、幼いころは院の“御懐に御足さし入れて、昼も御殿籠り” (※9)という有様でした。璋子は複数の男と関係していたことで知られており、最初、院は、藤原忠実の子の忠通に縁づけようとしたものの、璋子の乱行を嫌った忠実はこの縁談を強硬に拒みます(※10)。それで院は、孫の鳥羽天皇に入内させたのですが、第一子の崇徳天皇は白河院のタネと言われ、鳥羽院もそれと承知して、崇徳天皇を“叔父子”と呼んでいた(※11)。本当は自分の叔父なのに、建前では子であるからです〈藤原璋子系図〉。

 璋子の生理周期に注目した角田文衞は、崇徳の父は白河院としています(※12)。

 そして……小児期に性虐待を受けたことによる後遺症の一つに性的放縦が知られている(※13)。これは「トラウマによる性的言動の変化」と言われ、家族による性虐待を受けた子は「過度で不適切な性的行動」が見られるため、「被害児童が周囲からの偏見や中傷にさらされ」ることもあるといいます(※14)。あるいは璋子もそれに当てはまるのでしょうか。

※1 スーザン・フォワード『毒になる親』(玉置悟訳、講談社+α文庫)
※2 森田ゆり『沈黙をやぶって』(築地書館)
※3 “などてかう心憂かりける御心をうらなく頼もしきものに思ひきこえけむ”(『源氏物語』「葵」巻)
※4 『源氏物語』「真木柱」巻
※5 勝俣鎮夫「死骸敵対」(網野善彦他『中世の罪と罰』〈講談社学術文庫〉所収)
※6 『フロイス日本史』2 第二部一一〇章
※7 『フロイス日本史』1 第二部九七章
※8 渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社・歴史新書y)
※9 『今鏡』「藤波の上」
※10 『殿暦』(永久五年十一月十九日条等)
※11 『古事談』巻第二の五四
※12 角田文衞『待賢門院璋子の生涯』(朝日選書)
※13 デビッド・ミラー&ジョン・グリーン、川野雅資監訳『性の心理』(日本放射線技師会出版会)
※14 藤森和美・野坂祐子編『子どもへの性暴力』(誠信書房)

大塚ひかり(オオツカ・ヒカリ)
1961(昭和36)年生まれ。早稲田大学第一文学部日本史学専攻卒。個人全訳『源氏物語』、『ブス論』『本当はひどかった昔の日本』『本当はエロかった昔の日本』『女系図でみる驚きの日本史』『エロスでよみとく万葉集 えろまん』『女系図でみる日本争乱史』など著書多数。近著に『くそじじいとくそばばあの日本史』(ポプラ新書)がある。

2021年1月15日 掲載