離婚する気などさらさらないし、そんな雰囲気もないと思い込んでいたところに,妻からいきなり離婚届を突きつけられたら、どんな反応をする男性が多いのだろう。驚き、うろたえ、怒り、そして最後は白旗を揚げるのだろうか。

 マサトさん(仮名=以下同・54歳)は、2年前、結婚22周年の記念日に、いきなり妻のサヤカさんからサイン入りの離婚届を目の前に突き出された。

「びっくりしましたよ。何かの冗談かと思った。『妙なサプライズをするなよ』と笑おうとして妻の顔を見たら、にこりともしていない。さらに『じゃあ、これ』と出されたのが探偵事務所の封筒。中には僕が女性とホテルへ入っていく写真、一緒に出てくる写真などが入っていました」

 彼はうっと唸って声が出なくなったという。妻が探偵事務所まで使って浮気調査をするとはまったく思っていなかったからだ。相手は,絶対妻には知られたくない女性だった。妻の友だちだったからだ。

「僕自身は、それなりにうまくいっていると思っていました。家庭は大事にしてきたつもりです。ふたりの子がすくすくと大きくなって、それぞれ好きな道を進んでいけたのも妻のおかげだと思っていました」

 長男は大学生、長女は高校を卒業して専門学校へ入学していた。結婚22周年の1年ほど前、彼は妻から、友だちの夫婦問題の相談にのってもらえないかと言われた。

「僕も知っている妻の親友のトモカさんで、最初はめんどうだと思っていたんですが、会って話しているうちに、夫から長年、モラハラ、パワハラを受けていた彼女に同情してしまって。同情から恋に落ちたんです。一度関係をもったあと、妻に対してとんでもないことをしてしまったと後悔しました。だけど、トモカさんからは連絡が来るし、そうすれば僕も会いたくなる。子どもたちも大きくなったし、長男は成人したし、先が見えてきた人生で最後に心惹かれる人に会えたとも思っていました。妻にバレたら困るのはトモカさんも同じ。結局、共犯者としていけるところまでいこうという気持ちになってしまったんです」

 マサトさんは、ときどき、妻に「今日はトモカさんに会って話を聞いた」「彼女の夫はひどすぎる。離婚すればいいと思うんだけど」と話した。もちろん関係をもっているようなことはおくびにも出さない。ただ相談に乗っているだけだと妻に信じさせたかったのだ。

「とにかく離婚して」

 だから離婚届とともに、トモカさんと一緒にいる写真を妻から見せられたとき、マサトさんはうろたえた。妻は真っ白い顔をして、抑揚のないまま言った。

「あなたがこんな人だとは思わなかった。22年、信じていた私がバカだったのかしら」

 いや、違う、オレがバカだったんだ。マサトさんはそう言った。

「これを許すほど私は大人になれない。離婚してと妻は言いました。もちろん僕には謝ることしかできない。言い訳もできない。『あなたの顔を見ているとおかしくなりそう』と言われ、出ていくしかありませんでした」

 数日間、会社に近いカプセルホテルに泊まり、妻と話し合う機会を持とうと努めたが、妻はまったく応じようとせず、「とにかく離婚して」の一点張りだった。

「そのうち、長男まで『離婚しないとお母さんがおかしくなる』と言い出して。僕が離婚届を書くことで少しでも彼女の気持ちが楽になるなら、とサインしました。財産分与などはあとでという合意書にもサインした」

 彼はその後、自宅からそれほど遠くないところにワンルームのマンションを借りた。まるで学生が住むような部屋だが、そうなってもまだ彼は、いつか自宅に戻れるのではないかと希望を抱いていたのだ。

 妻はいつか許してくれるはず。それだけの歴史が夫婦の間にはあるのだから。夫はそんな思いをもつことが多いが、その時点で妻が翻意することはほぼない。少しでも気持ちが残っていれば妻は「離婚」という最終手段には出ないはずだ。

 離婚届を出してから、妻の弁護士がやってきて,事務的に財産分与を決めていった。すっかり気力が衰えてしまったマサトさんは、ほぼ相手の言いなりになるしかなかったという。

「家は妻に渡しました。まだローンがありますが、それは僕が負担することに。結婚してからの貯金も折半、さらに妻への慰謝料として400万円。これは定年を迎えたときの退職金で払うということなりました。弁護士にいわせれば、妻に対しての大きな裏切りを考えれば低額ですんだと思え、と。妻も仕事をして今から生活に困ることはなさそうだし、彼女のショックを考えればしかたがない。ただ、それでも僕はまだ自分が離婚したことが信じられなかった。現実味がありませんでした」

 妻を愛しているとか好きだとか、そういう感情より前に、「妻はそばにいて当然」の存在だったからだ。それに心のどこかで、不倫相手との関係はたった半年ほどだったという思いもある。燃えるような恋愛感情があったことは、このときマサトさんの心にほとんど残っていなかった。それより20年以上にわたる結婚生活のほうがずっと重かったのだ。

「それから半年ほどたってからですかね、あ、僕は妻を失い、子どもたちの信頼もなくしてしまったんだとリアルに感じたのは。毎日、ワンルームのマンションで独身生活を続けているけど、僕は若い男ではなく、定年を数年後に控えたオッサンで、妻子から見放されたんだと、ようやくことの次第を実感できるようになったんです」

 孤独と寂しさが彼を襲った。同時に夫と親友、どちらにも裏切られた妻の気持ちに思いを馳せた。ただ、どうしてあんなことになってしまったのか、自分でも自分の気持ちがよくわからず、整理もできなかった。

自宅はもぬけの殻

 自宅に行ってみよう。ある日曜日、マサトさんは意を決して自宅へと向かった。元妻から罵詈雑言を浴びてもいい。復縁しなくてもいい。ただ、心から謝りたい。そう思った。

 ところが自宅は人が住んでいる気配もなかった。

「いったい、どうしたのだろうと家の中をのぞき込んでいると、近所の人に会ったんです。彼女は『あら』と大きな声を出して寄ってきました。『お引っ越しされたんでしょう、どうしてここへ?』って。おそらく妻は一家で引っ越すと言ったんですね。もうどう思われてもいいと考えて、実は離婚したこと、妻子はここに残っているはずだということなどを話しました。すると『なんだかおかしいと思ってたのよ。だって奥さん、よく外で男性と歩いていたから。近所の噂になってたのよ。奥さんの浮気で離婚?』と興味津々で聞いてきたので、あわてて引き揚げました。でもすごく嫌な予感がしたんですよ」

 そもそも、なぜ妻が親友の相談にのってほしいとマサトさんに頼んできたのか。男性の気持ちが知りたいとトモカが言っていると妻は述べていたが、夫とトモカさんをわざわざふたりきりで会うように仕向けたのは妻だ。何かがおかしい。

 マサトさんは長男に連絡をとろうとしたが、携帯番号も変えてしまったのか連絡がとれない。長女も同様だった。妻にはどうしても電話をかける気になれなかった。

 真実を知りたいのか知りたくないのか、自分でもわからない日々が続いた。そしてつい最近、長男がマサトさんの勤務先にやってきた。

「留年してしまったので、あと1年分の学費を出してもらえないかということでした。それはいいけど、どうしているんだと聞いたら、長男はひとりで暮らしていると。妻と長女が一緒に小さめのマンションを買って住んでいるそうです。君たちを傷つけて申し訳ないと深く頭を下げました。すると息子は、『お父さんが何をしたのかはお母さんに聞いた。だけどお母さんも似たようなものだと思うよ』と。別れ際に、気が向いたら今度、一緒に飲もうと声をかけたら、息子が少し笑ってかすかに頷いたんです。あの笑顔だけが今の僕の支えですね」

 ひょっとしたら妻のほうが離婚したかったのではないか。妻には以前から男がいたのではないか。だからマサトさんが浮気するように自分の親友を差し向けたのではないか。意図的ではなかったかもしれないし、トモカさんが加担したとも思いたくないが、自分の浮気が少しでもカモフラージュされればと深謀遠慮をはたらかせたのではないだろうか。彼はそこまで考えたという。

 実際、浮気調査の仕事をしている人と話したところ、こういった例はそう珍しくないと聞いたことがある。妻から夫へ、夫から妻へ、相手の浮気を先に暴いて慰謝料をせしめ、実は自分にもともとつきあっている人がいるのだ。その場合、ほとぼりが冷めたころ、不倫相手と再婚するという。

 マサトさんのケースがそうだったかどうかはわからない。だがマサトさん自身、そう考えれば妻の突然の離婚届も腑に落ちるのだそうだ。

「子どもたちの手前、妻はまだまだ再婚はしないでしょう。そういう深謀遠慮があったかどうかもわからない。もうどちらでもいい。ただ、僕の22年の結婚生活は何だったのか、虚しさだけが募りますね」

 気がつくと下を向いて歩いている。自分がどんどん縮んでいくような気がすると、彼は自嘲的につぶやいた。

亀山早苗(かめやま・さなえ)
フリーライター。男女関係、特に不倫について20年以上取材を続け、『不倫の恋で苦しむ男たち』『夫の不倫で苦しむ妻たち』『人はなぜ不倫をするのか』『復讐手帖─愛が狂気に変わるとき─』など著書多数。

デイリー新潮取材班編集

2021年2月10日 掲載